2017-01-01から1年間の記事一覧

五條新町~旧紀州街道2

旧紀州街道沿いに古い町並みを残す 奈良県五條市は、松倉重政の島原転出の後、 天領となり幕府の代官所が置かれました。 天領として穏やかな繁栄が続きましたが、 文久3年(1863年)尊王攘夷派が大和行幸を 計画して、それに先駆ける天誅組が 五條代官所…

上田城(2)

昨年の10月に車を使って、岐阜の中津川から入り、 木曽川沿いに長野の名所を訪ねる旅をしました。 信州松本から山を越えて、上田に入りました。 ここ上田は、関ヶ原の前哨戦の2次上田合戦が、 真田家と徳川秀忠公率いる東軍の間で行われました。 結果は真田…

室生寺(むろうじ)

室生寺は、奈良盆地の東、 三重県境に近い山の中にありました。 この寺は、真言宗室生寺派の大本山で、 女人高野の別名があります。 伊勢から奈良の五條に向かう途中、 室生寺という看板が目に入り ハンドルを切りました。 前に台風の被害で国宝の五重の塔が…

和歌山城

和歌山市にある和歌山城(虎伏城)は、紀州平定後、 豊臣秀吉の弟秀長が、虎伏山に築いた平山城です。 城代の桑山氏の時代があるものの、 関ヶ原合戦後浅野家、 その後、御三家の紀州徳川家の居城となりました。 和歌山城天守曲輪と大天守 城代の桑山氏の時…

醤油発祥の地~湯浅

和歌山県湯浅町は、醤油発祥の地という説には、 異説があり、魚から作る魚醬は縄文時代からあったとか、 まあ、一つの説として、湯浅説をお話しします。 鎌倉時代、覚心と言う禅僧が 中国の径山寺で修業して、その後湯浅の近くの 由良に西方寺を開きました。…

今村天主堂~三井郡大刀洗町

福岡県南部の筑後地方、久留米市と接する、大刀洗町には、 戦前に陸軍の飛行場があり、戦争末期には、 特攻の訓練がここで行なわれたと知っていました。 物の本を読んでいると、「筑後に隠れキリシタンの郷があり、 国の重要文化財になっている今村天主堂が…

おはらい町~伊勢神宮参道

おはらい町は、伊勢神宮の内宮の参道にある 特有の切妻・入母屋・妻入り様式の飲食店や 土産屋が建ちならんだ鳥居前町です。 この参道の横には、五十鈴川が流れています。 五十鈴川郵便局 ここでは郵便局も町屋風になっていました。 観光地なので、人波が押…

五條新町~旧紀州街道

奈良県五條市の旧紀州街道には、 古い町屋が残っていました。 桃山時代成立していた五條村と二見の間に五條新町が 島原城で書きました松倉重政の施策で出来ました。 その後、重政は肥前島原に転出しました。 山本本家 五條本町にお店を構える山本本家は柿ワ…

小倉城~北九州市

小倉北区にある小倉城は、 1602年細川忠興公によって建てられた城です。 その後、加藤家廃絶の後の熊本に転出して、 譜代大名の小笠原家が15万石で入りました。 幕末、長州攻めの矢面に立った、 九州探題を担う小倉藩は、 反対に長州軍に攻められ 自ら…

中津城

大分県中津市にある中津城は、 太閤の家来であった黒田官兵衛に 豊前で6郡16万石の領地を賜った事に始まります。 山国川の河口に造られた平城で、船で海に出られ、 日本三大水城のひとつに数えられます。 中津城 今は五層の天守が聳えていますが、 これは昭…

路地(7)~鞆の浦

鞆の津の商家の横を狭い路地に入ると、 登坂になり、このまま進むと福禅寺の 対潮楼の裏に出るみたいです。

唐津城(舞鶴城)

唐津城は、高い天守台から天守が聳えており、 離れた場所からも見える城です。 この城も明治の廃城令で、取り壊されて、 昭和になってから、天守が再現された 模擬天守です。 この城は太閤の家来であった寺沢広高が、関ケ原合戦のあとに 完成させましたが、…

蔵造り資料館~川越

川越の蔵造りの街並みを 鐘つき通りに曲がらずに、 県道39号線を札の辻に向かって 北上すると左手に、蔵造り資料館があります。 蔵造り資料館(右側の家屋) 同じような古い家屋が立ち並んでいるので、目立ちませんが、 ここは、明治26年の川越大火の後…

旧香港上海銀行長崎支店~長崎

長崎の大浦海岸通りを市内電車道は左折して、 大浦天主堂に行きますが、 直進すると、左側に3階建ての石造りの建物が見えます。 この建物は、香港上海銀行が1892年開設し、 1904年に竣工したものです。 現在は長崎市の多目的施設となっています。 …

佐原街歩き(5)

小野川の流域に江戸情緒を残す、香取市佐原を 佐原三菱館から忠敬橋へ歩いて行く途中、 土蔵造りのお店を見つけました。 中村屋乾物店 中村屋乾物店は、江戸時代創業の乾物店で、 明治25年(1892年)の佐原大火 以後に建てられた、壁の厚さ45センチの…

鞆の津の商家

路地に入り込んでゆっくりと進むと、 大きな家屋に行き着きました。 横から見ると土蔵で、 正面から見ると立派な店構えの商家です。 車を止め、家屋に近づくと、 木戸が降りていて本日休館日でした。 鞆の津の商家 ここは、江戸の末期呉服店として建てられ、…

旧街道をゆく~豊前街道

熊本のお殿様は、参勤交代で江戸に上り下りする時、 豊後街道を通るのが通例でしたが、豊前街道も通っています。 (1)豊後街道は阿蘇を通って大分鶴崎に抜け、船で本州に行くルート (2)豊前街道は、熊本を北上して、山鹿、南関、小倉に至るルート 山鹿 …

龍源寺~臼杵市

臼杵市にある龍源寺は 浄土宗総本山知恩院の末寺で 慶長五年(1600年)円誉上人の開山です。 明治十年の西南の役で、山門と三重の塔を残し焼失しました。 龍源寺 三重塔は太子塔と言われ聖徳太子の像を祀っています。 1階の4隅の軒先を鬼の像が支えて…

鞆の浦~桝屋清右衛門宅

鞆の浦には、幕末の坂本龍馬が、 紀州藩と海難事故の交渉をした時、 滞在した桝屋清右衛門宅が残っていました。 事の起こりは、龍馬の海援隊借用のいろは丸が、 六島の沖で、紀州藩の明光丸と衝突沈没しました。 交渉の結果、龍馬は83、526両の賠償金を…

旧豊前街道~山鹿(11)

豊前街道の惣門付近は、 酒蔵や味噌蔵が建ち並ぶ、商工地区でした。 今あるのは、千代の園酒造とお味噌屋の木屋本店です。 昔の街道にしては広いようです。多分道幅拡張されています。 真ん中の部分が、元の街道の幅です。

福山城~家老内藤家長屋門

福山藩の家老の内藤家の長屋門が 外堀の西端よりお城の中に 移されてありました。 内藤家長屋門 千五百石の家老職を務めた内藤家です。

路地(6)~鞆の浦

鞆の浦は、とにかく保命酒のお店が目立ちます。 ここの保命酒の方は、「ほうめいしゅ」と言っているみたいです。 お店の前を通るとアルコールの鼻に突く香りと、 その後薬草の匂いがしました。 軒先に杉玉を吊るした保名酒のお店です。その隣は七卿落ちの旧…

白川郷~合掌造り(5)

今年の5月末に訪れた白川郷は、ちょうど田植えの時期で どの田んぼも、田植えの最中でした。 白川郷 明善寺の横の田んぼでは、村総出の田植え(機械植えでなく、手植え) が始まっていました。観光のイベントなのか、昔から寺の田んぼは 檀家が総出で植える…

旧吉井町~福岡県

福岡県吉井町は、市町村合併で、うきは市が誕生したため、 自治体は消滅しましたが、場所の名としては存在しています。 この吉井町は、旧豊前街道の宿場町筋に、 なまこ塀を配した白壁の家屋が 立ち並んでいました。 白壁の街並み お詫び 11月7日に挙げる…

奈良井宿~旧中仙道(2)

旧中山道の宿場町、奈良井宿は、69宿の中の、木曽路11宿で、 北から2番目の宿場でした。難所の鳥居峠を控える宿場で、 奈良井千軒と呼ばれ賑わっていました。 10月に広島の福山に行き、県立歴史博物館で、 今は無き、「草戸千軒」の展示がありました…

高山~古い町並み(16)

高山の古い町並みを、ホテルを朝早く抜けだし、見に行きました。 途中、宮川の朝市を覘きましたが、まだ早い様で、お店の準備中で、 後に回しました。 古い町並みは、人通りもなく、人波に溢れた昨日とは、全く違う 顔を見せて呉れました。 勿論、お店は、木…

路地(5)~有田

佐賀県有田町の国道35号線から 脇道に入り込むと、片側がトンバイ塀の細い路地に出ました。 その先は、煉瓦積みの煙突のある、古い焼き物の工場に出ました。 深川製磁の工場 明治27年に建てられた、製磁工場です。

路地(4)~鞆の浦

鞆七卿落ちの太田家住宅の通りは、 昔からの通りの幅なのでしょうが、 車社会の今では、狭く感じます。 軽自動車がやっと通れるかどうかの幅です。 この太田家住宅の通りの裏の路地が、 打って変わって、白壁の蔵が立ち並ぶ 白壁の通りでした。 港まで続てい…

山鹿~旧豊前街道(10)

旧豊前街道の山鹿には、コメの集積地として 米を原料に使う産業、酒造業や味噌、麹 の酒蔵や味噌屋が集まった所が、 街道と菊池川が交わった地点にありました。 米穀商本田喜久八の店舗 本田喜久八さんは千代の園酒造の創業者です。 昔の商店は、間口は狭い…

福健会館~天后堂

長崎市の新地の中華街を抜け、 福健通りから唐人屋敷通りに出ると 赤い正門が印象的な、福健会館がありました。 ここは、中国の福健省出身者が建てた会所でしたが、 原爆により倒壊し、今は正門と天后堂が残っています。 福健会館、天后堂 赤い煉瓦積みの天…