2020-09-01から1ヶ月間の記事一覧
旧東海道の関宿は、鈴鹿山脈の山裾にあります。 江戸後期にかけての町家200軒が現存しています。 古い建物の中に新しい店も見られます。
京都の八坂神社から西に行く通りの 四条通を南に曲がると、先に臨済宗の建仁寺がある 花見小路に出ます。 ここ通りの両側には、茶屋や料理屋が立ち並んでいました。 車も通る結構広い通りで、狭い通りを想像していたので 驚きでした。
お城のある郡上市を、長良川の流れと共に 南下すると、小倉山にお城があった美濃市に出ました。 ここは美濃和紙で有名な和紙の町です。 そんな美濃市の町中にうだつの上がる町並みがありました。 商家の町並みには、屋根に防火装置のうだつが 上がっていまし…
旧中山道の宿場町奈良井宿は 長野県塩尻市にあります。 奈良井宿は中山道69次の34番目 の宿場で、木曽路にある11宿の中でも 一番標高の高い宿場でした。 難所の鳥居峠を控え、一泊して旅の疲れを癒す所で、 奈良井千軒と呼ばれ栄えた宿場でした。
旧東海道の47番目の宿場町関宿は、 鈴鹿山脈の山裾にあります。 ここは、古代より交通の要衝で、古代三関の一つ 鈴鹿の関があった場所です。 伊藤本陣跡の隣に、大きな建物がありました。
奈良町は、平城京の下京として、 社寺が多く置かれた事に始まります。 元興寺が廃寺になって以降、 多くの手工業者が住み着き 商工都市となりました。 奈良が空襲を受けなかったので、 奈良旧市街として残りました。
岐阜県の北部飛騨地方にある高山は、 江戸の少し前から金森長近のお城のある城下町でした。 そんな城下町の面影の 残る古い町並みが今も残っていました。
瀬戸内海の島で、北前船の寄港地として 賑わった大崎下島は、今は呉市になっています。 橋が出来たので、車で行ける島になりました。 そんな当時を彷彿とさせる町並みが残っていました。
広島県東部の瀬戸内の港町竹原は、 江戸末からは塩田の塩の生産が盛んになり、 遠く江戸大坂まで北前船で運ばれました。 そんな古くからの町並みを残す保存地区には、 ゆったりとした時間が流れていました。
焼き物の里有田から少し離れた所に、 17世紀のツインガー宮殿を 模したテーマパークがあります。 内部には江戸末から明治初期にかけての 輸出用に制作された作品のほか、 数々の有田焼が展示されています。 宮殿の庭園には四季折々の花々が咲いています。
京都の町中で見つけた足袋屋さんは、 ビルとビルの間にありました。 着物文化の残る京都にはなくてはならないもの のようです。
室生寺は、奈良県の東の端、 三重県境に近い山の中にありました。 シャクナゲの名所として知られます。 またここは女人禁制の高野山に対して、 参詣が許された「女高野」の別名があります。 仁王門から入ると、山を登る坂道と 石段の先に五重塔がありました。
倉敷は江戸時代幕府の天領で、 倉敷川の両岸には、年貢のコメをを保管する、 蔵や商家が立ち並んでいました。 今は料理旅館鶴形なっている建物の先には、 有隣荘や大原本邸があります。
3重の小天守3基とその2重の渡櫓に守られた 5重の大天守が白く輝く、姫路城は、大阪城以西の 守りのために造られました。
愛媛県の南部に位置する大洲町は、 温暖な気候で、盆地のため 深い霧が発生することがあります。 町の中心にお城がある城下町でした。 大名行列が通った通りは、 おはなはん通りと呼ばれていました。
松阪市の魚町1丁目に長谷川治郎兵衛の本宅がありました。 治郎兵衛は丹波屋の屋号で、いち早く江戸に進出して成功した 伊勢商人のひとりです。 丹波屋は江戸日本橋で木綿の売買をはじめました。 その後木綿問屋に改称され、資産4万9千両に達しました。
伊勢神宮内宮前のおはらい町にある、 おかげ横丁は、江戸末から明治の初めの、 おかげ参りが流行していた頃の、 伊勢路の建物を移築して、 当時の雰囲気を再現しています。 伊勢うどんに手捏ね寿司、赤福など、 伊勢路の名物が並びます。
臨済宗妙心寺派の大本山妙心寺は、 京都の花園にあり、 臨済宗寺院の半分は妙心寺派です。 三門、仏殿、法堂などの中心伽藍の周りに 多くの塔頭が立ち並びます。
旧東海道の池鯉鮒宿(ちりゅうじゅく)と 鳴海宿の間に出来た有松は、 絞り染めの有松絞りの産業が発展して、 豊かな商人の蔵や邸宅が立ち並ぶ街になりました。
南禅寺は京都の左京区にある臨済宗のお寺です。 そのお寺の境内に大きな三門があり、 大泥棒の石川五右衛門がこの三門に上り、 「絶景かな、絶景かな」と桜をめでたという のは、お話で、、五右衛門の生きていた時代には この三門は、存在していないとのこと…
四国香川県にある丸亀城は、生駒親正の 高松城の支城として築かれました。 高い石垣の上に、小さな天守が乗っています。 堀を渡って大手二の門から入り、大手一の門へと進み、 石垣のてっぺんの天守までは、かなりの登りでした。
奈良県橿原市にある今井町は、戦国時代の寺内町を原型に 他の勢力からの干渉を拒み、堀を深くし、兵力を蓄え ていました。 上品寺屋の屋号で今でも酒蔵を営んで居ました。
広島県の東部にある竹原は、瀬戸内海の港町で 、江戸の後期に塩田の塩の生産が盛んになり、 遠く江戸大坂まで、北前船で運んでいました。
奈良県の五條市は、江戸時代紀州に向かう 紀州街道と伊勢に向かう伊勢街道と 大和街道の交差する交通の要衝でした。 江戸のはじめ、そんな五條と城のある二見と間に 新町ができました。 格子戸と白壁の町家が続きます。
長崎の中島川にかかる眼鏡橋は、寛永11年 興福寺の黙子如定により造られました。 その後昭和57年長崎大水害で 半分損壊し修復されました。 その修理過程で、石段が見つかり、 この橋は階段の橋で、人力車が通りやすいように 階段を無くしたようです。
伊勢神宮内宮前のおはらい町にあるおかげ横丁は、 江戸末から明治にかけて、おかげ参りで 賑わった頃の、伊勢路の町並みを再現しています。 伊勢うどんに手捏ね、赤福餅など伊勢の名産品がいっぱいです。
瀬戸内海に浮かぶ大崎下島の御手洗は、 北前船の寄港地でした。 そんな船の入港で賑わった、 御手洗の路地は狭く折れ曲がっていました。
熊本県人吉市にある青井阿蘇神社は、平安時代の806年に 阿蘇神社の分霊をまつることで始まりました。 鎌倉時代領主の相良氏により、社殿の造営修理が行われ 現在国宝に指定されています。 今年の7月の豪雨災害で、社殿楼門が浸水し、被害を受けました。
九州の西の海上に浮かぶ平戸島は、江戸のはじめ オランダ商館が置かれていました。 鎖国前、平戸は貿易港で、ポルトガル、 イギリス、中国、オランダの船で賑わいました。 そんな平戸に、オランダ橋を呼ばれる、 お城と城下を結ぶ橋がありました。 この橋は…