2021-04-01から1ヶ月間の記事一覧
東大寺大仏殿の北西にある大仏池から、 大仏殿裏を通って二月堂への裏街道沿いに、 瓦を土で練りこんだ瓦塀の中性院があります。 中性院の本尊は、快慶作の弥勒菩薩立像です。
千葉県香取市の佐原の小野川の右岸に 伊能忠敬の旧宅がありました。 伊能忠敬は、ここの商人で、49歳で隠居をして 天文学を勉強し、日本全国を測量して 「大日本沿輿地全図」を作った人です。
伊勢神宮内宮前にあるおはらい町は、 宇治橋から五十鈴川沿いに およそ八百メートル続く石畳のとおりです。 伊勢独特な入母屋造,切り妻、 妻入りの店舗が軒を並べます。
中央南アルプスの南にある馬籠宿は、 中山道43番目の宿場町でした。 山の尾根道に出来た宿場なので、 宿場を通る街道も坂道になります。 木曽路11宿の中で一番南に位置する宿場です。
四国香川県の丸亀市に、大手一の門と二の門と 高い石垣の上に小さな天守を今に残す 丸亀城は慶長7年にほぼ完成しました。 江戸時代、一国一城令で、高松城と丸亀城の2つを 持つのは許されませんが、何とか隠し通しました。
北房総の佐原には、小野川沿いに 古い町並みを残します。 小野川にかかる忠敬橋の東側の県道55線沿いの 旧三菱銀行前にも、古い建物がありました。
上田家住宅は、奈良県橿原市今井町の 大工町筋の南の角地に建っています。 元亀元年に今井町に移住し、壼屋の屋号で、 酒造業を営んで居ました。 惣年寄りを務め、寛永11年には、 他の有力商人と今井札を発行していました。
倉敷の美観地区を流れる倉敷川は、 高梁川と児島湾を結んでいます。 そんな倉敷川の両岸は白壁に なまこ壁の土蔵が立ち並んでいます。
千葉県成田市にある成田山新勝寺は、 真言宗智山派の仏教寺院で、成田のお不動さんとして 親しまれています。 その約八百メートル続く参道には、 様々な商店が軒を並べています。 この参道は緩やかに曲がりながら下って行きました。
旧東海道の47番目の宿場町関宿は、 鈴鹿山脈の山裾にあります。 ここは、古くからの交通の要衝で、 古代三関の一つ鈴鹿の関があった場所です。 *古代三関~不破の関(美濃国)、愛発の関(越前国)、鈴鹿の関(伊勢国) 東の追分から伊勢別街道が、 西の追…
潮待ちの港として知られる鞆の浦は、 瀬戸内海の中間地の広島県東部にありました。 動力で動く船ができる前は、風力や潮の流れで 船を動かしていました。 潮の流れは、干満の差によって生まれます。 鞆の浦の港で、潮待ちをすることで 東西どちらの方向にも…
岐阜県の北部にある飛騨地方に高山があります。 ここは、白山山地と飛騨山脈に挟まれた盆地で 冬場はかなりの降雪があります。 江戸時代前半は城下町で、 その後幕府の陣屋が置かれました。
河崎は、伊勢湾を渡って来た伊勢神宮の参拝客が 上陸する勢田川の河岸でした。 江戸時代にかけて、日本中の物資を売りさばく 問屋が軒を並べて、勢田川の並びに、お店や土蔵が立ち並び 賑わったところでした。 今では当時の土蔵を改装した店が営業していまし…
長野県塩尻市にある奈良井宿は、 旧中山道の34番目の宿場町でした。 今でも、木曽の木を使った曲げ物、櫛、漆器などの木工品や 信州そばやおやきといった飲食店が軒を並べます。
竹原にある古い郵便局は 明治4年に建てられた純日本建築の建物で 明治7年から郵便取扱所になりました。 表には木で出来た書状集箱(郵便ポスト)が あり、今でも使わていました。
旧中山道の妻籠宿にある 上嵯峨屋は、庶民が木賃宿でした。 食料を持参し、ここで煮炊きをして 薪代である木賃を支払う形式で、 部屋では雑魚寝でした。
平将門調伏祈願のために建てられた成田山新勝寺は、 千年ほどの歴史があります。 その新勝寺の門前には、たくさんのお店が並びます。
松江城は、山陰島根県の 宍道湖の北東にあるお城です。 慶長16年(1611年)の落成で、堀尾忠氏によって建てられ 今では日本に残っている天守12基の中でも、国宝になっている 姫路、犬山、彦根、松本の5つの城の一つです。
今は下関市になっている長府は、 長洲藩の支藩でした。 そんな長府の藩政時代、上級武士が 住んでいた古江小路に、菅家長屋門が残っています。 菅家は京より招聘された侍医で、藩主の侍講も務めた 家柄でした。
松阪市の魚町1丁目にある旧長谷川治郎兵衛邸は、 丹波屋の屋号で、松坂屈指の豪商の長谷川家の本宅です。 長谷川家は、江戸に店を持つ商人の中でも、 もっも早く江戸に進出しました。
奈良県の南西部にある五條は、 紀州街道と伊勢街道、 大和から南下する大和街道の交差点です。 そんな五條の紀伊街道に古いお餅屋さんがありました。 行った当時は、何らかの事情で閉じられていました。
中山道42番目の宿場町妻籠が 長野県木曽郡南木曾町にあります。 妻籠は中山道と飯田街道が 分岐する追分がありました。 寺下の町並み、この方向に進むと、 馬籠峠を越えて、京都に近づきます。
「諏訪の浮き城」と呼ばれた高島城は、 今では諏訪湖からかなり離れた場所にあります。 これは、諏訪湖が干拓されて小さくなった事によります。 この城は日根野高吉によって文禄元年から建設が始まり、 日根野氏転封で、諏訪氏が明治まで続きました。
和歌山の有田川の南にある入江に、醤油発祥の地 として知られる湯浅があります。 そんな湯浅の北町通りには 古い醤油工場の角長があります。 醤油蔵のあるこの通りを通ると、 醤油の香りがしました。
広島県の東部の瀬戸内海沿いの港町竹原は、 古くからの港町として知られていました。 江戸後期からは塩田の塩の生産が盛んとなり 遠く江戸大坂まで千石船で運んでいました。 そんな竹原には古い町並みを残す 細い路地がありました。
平城遷都の下京として、 寺社仏閣が置かれた奈良町に 中世以降、元興寺の境内に様々な 業種の手工業者が住み着き、 江戸時代は、商工業の町として 町並みができました。
八幡堀は、安土桃山時代に、豊臣秀吉の甥豊臣秀次が 八幡山に築城し、琵琶湖と城下を結ぶ運河と 堀を兼ねて造られました。 幅15メートル、全長6キロの人工の水路ですが、 この水路により、琵琶湖経由の物流が増大し、商業が発達し 近江商人の誕生に寄与しま…
瀬戸内海に浮かぶ島大崎下島に、 御手洗はありました。 江戸時代、北前船の寄港地で賑わった御手洗の町中は、 細い路地が巡っていました。
中山道の34番目の宿場町奈良井宿は、 木曽路にある11宿の中で一番標高が高い宿場です。 難所の鳥居峠を控え、ここで一泊するところで 奈良井千軒と謳われ栄えた宿場でした。