2022-01-01から1年間の記事一覧
江戸時代に仙南地方の紅花の 集散地として栄えた村田町は、 店蔵と呼ばれるなまこ壁を多く使用した 土蔵造りの店舗と豪壮な表門が 立ち並ぶ街並みがありました。 沼田酒造店は正徳2年(1712年)に誕生し、 乾坤一を製造する造り酒屋でした。
倉敷の美観地区にある、大原美術館から川沿いに下ると、 中の橋の先は、川がクランク状に曲がっています。 その先に進むと道は広くなり、 大きな米蔵が建っています。 ここは倉敷民芸館と言って、 日本をはじめ世界 保存展示する博物館です。
福島県の会津若松は、江戸時代城下町で、 町の東側にお城があります。 ここにお城または館が出来たのは、南北朝の蘆名氏が始まりで、 その蘆名氏も伊達政宗によって滅ぼされ、 その後は蒲生氏郷や上杉景勝、加藤嘉明などの 大名が入りました。 そのあと、保…
広島県の東部にある竹原は 古い港町で知られます。 江戸後期になると、塩田の塩の生産が盛んとなり 遠く江戸大坂まで廻船で運ばれました。 そんな竹原の古い町並みに ひときわ大きな邸宅がありました。 塩田経営や石炭問屋、回船業、醸造業と幅広く手掛けた …
会津若松の飯盛山にあるさざえ堂は寛政8年 (1796年)に建てられたお堂でした。 全高16,5メートルの六角三層の建物で、 当時は、正宗寺というお寺が建っており、 お堂の中に西国三十三観音が安置されて、 このお堂をお参りする事で、三十三観音巡り…
富山県の南西にある南砺市の五箇山は、 庄川の流域にある集落で 合掌造りの民家の郷として知られています。 冬場は豪雪地帯で、雪に閉ざされるために 短い晩秋には、雪囲いをします。
会津若松の鶴ヶ城の北の玄関口が北出丸で 堀の外には、藩の重臣達の邸宅が 通り沿いに立ち並んでいました。 北出丸入り口には、今は白漆喰の店蔵の店舗が建っています。 ここは会津葵本店という上菓子司のお店で、和菓子を作っています。 江戸の昔なら、ここ…
元禄の江戸を揺るがした赤穂浪士の討ち入りを 指揮した城代家老大石内蔵助の屋敷が、 お国の赤穂城に残っています。 厳密にいえば、千九百坪ある家老屋敷は、 大石神社になっていますが、 江戸から悲報を伝える早打ちの早水藤左衛門と萱野三平 が叩いた表門…
徳川家康が生まれた城として知られる岡崎城は、 三河湾に注ぐ矢作川と乙川に挟まれた場所にあります。 松平家の代々の持ち城でしたが、当時の城は、 天守閣も石垣のない、堀を掘った土を 掻き上げた、かき揚げの城だったと云われます。 天守が置かれたのは本…
兵庫県の西の赤穂市にある坂越は、 播磨灘の面する、良港として知られ、 北前船の西回り航路の主要な寄港地でした。 十七世紀になると、回船業の拠点として、 豪商が回船業を営み、坂越浦には北前船や 小型廻船がひしめいていました。 坂越浦(坂越港)から…
川越の蔵造りの街並みから少し離れた松江町に 立派な蔵造りの町屋がありました。 ここは、仲町交差点を東に入り、商工会議所を通り越して 少し行った所で、江戸時代から昭和の初期まで米問屋が軒を連ねていました。 ここは、原田家住宅といって、屋号足立要…
清水寺を参道の清水坂で北に下ると、 土産物屋とか陶器店、銘菓の老舗が並ぶ 三年坂があります。 この辺は、蕎麦屋さんお香屋さんが並び観光客で溢れる 通りでした。
平城遷都の下京として造られた 奈良町には、寺社が置かれました。 中世になると、元興寺の旧境内に様々な商工業者が 移り住み、醤油、墨、仏具、刀、蚊帳、筆、 晒し、布団、酒などの商工都市となりました。 奈良は、空襲の被害を受けなかったので、 狭い路…
3 富山県の南西部にある五箇山の菅沼集落は、 庄川の畔にある合掌造りの郷でした。 ここは、冬場は豪雪地帯で、雪に閉ざされます。 もう今の時期は、雪景色に変わっているでしょう。
江戸時代、肥前唐津から玄界灘沿いに、 豊前小倉を結ぶ唐津街道が通っていました。 唐津ー前原-今宿ー福岡ー博多-筥崎-赤間(宗像) -芦屋-若松ー小倉―大里(門司)を二十一宿で結んでいました。 そんな宿場の中で赤間宿は宗像市にあり、藩主の黒田長政…
日光の今市から会津若松を、下野街道 (会津西街道)が結んでいました。 その宿場で今に残る大内宿が 南会津の山の中に残っていました。 三十軒程の茅葺屋根の建物が、 今は蕎麦屋や土産物屋として残っていました。
旧日光例幣使街道の嘉右衛門町の 岡田記念館の先に、古い農業資材や肥料を扱っている 古い店舗がありました。 建物の右寄りに車の出入口があり 裏で資材を積み下ろしができ、 車の車庫にもなる構造でした。
栃木の蔵の街大通りの神明宮の出口の交差点に、 栃木蔵の街観光館という店蔵(タナグラ)が建っています。 タナグラとは、蔵造りの店舗のことで、 ここは。八百金で知られた荒物、麻問屋を営んでいた田村家の 建物で神明宮に行く道沿いに蔵が立ち並んでいま…
今は野口英世青春通りになっている大町通りに、 黒漆喰の店蔵があり、他を圧しています。 この建物は、百年ぐらい前に建てられたもので 福西本店と言い、福西家は三百年前に会津若松で店を構え 十二代を重ねた商家で、様々な物産を扱う問屋で、 味噌屋醤油の…
旧中山道の43番目の宿場町の馬籠は、 山の尾根道に出来た宿場で、町全体が坂になっています。 この宿場は、木曽路11宿の中で、一番南にある所で 馬籠峠までは、ずっと上り道で、 その後は杉林の中を妻籠宿まで下ります。
岐阜県の北部の飛騨地方に、白山山地と 飛騨山脈の高い山々に囲まれた盆地の高山はありました。 ここは江戸時代の初めは城下町で、 その後は幕府の陣屋が置かれました。 高山の町中には、古い商家の街並みが続きます。
会津若松の七日町通りから中に入り込むと 大きな造り酒屋さんがありました。 白漆喰の土蔵群と、木造の店舗が、 他を圧して建っていました。 ここは末廣酒造嘉永蔵という造り酒屋です。
16世紀に銀鉱が見つかり、銀山が開発され その後は銀山は衰退して、温泉湯治が 盛んになりましたが、奥州道から離れた 山奥の秘境の温泉でした。 また大正時代には大洪水に見舞われ、 壊滅的な被害を受けました。 その後、道の開通や、旅館の建て替えが進…
会津若松の七日町通りから続く、中町には 野口英世青春通りという一角がありました。 野口英世が子供の時の火傷の手術を 受けた旧会陽医院や豪商の福西本店が立ち並ぶ所で 黒漆喰の重厚な建物は、他に見られない 壮大な建物でした。 渡米までの3年間、英世は…
栃木の蔵の街大通りを歩いていると、 栃木蔵の街美術館の脇に蔵が 三棟並んで建っていました。 ここは、お助け蔵と言って、近江出身の豪商善野家の蔵で、 江戸末に困窮者へ米を放出したり、蔵を新築したりして 民を救いました。
長野県下諏訪町は諏訪大社下社秋宮の門前町で 甲州街道の終点です。 またここは中山道二十九番目の宿で、 中山道では唯一温泉のある宿場でした。 今でも温泉宿が残っています。
広島県東部の瀬戸内海に接する港町鞆の浦は、 潮待ちの港として知られていました。 瀬戸内海のほぼ中央に位置する鞆の浦の沖で、 干満の差で、東西の潮の流れが生じて、 その潮流に乗って船を動かしていました。 という理屈で、潮が動き出すまで、 ここ鞆の…
福島県の猪苗代湖の西にある会津若松は、 鶴ヶ城の城下町でした。 南北朝の頃、蘆名氏が館を建てたのが始まりで、 その後は、伊達政宗、蒲生氏郷、上杉景勝、 加藤嘉明、保科正之と名の知れた武将が城主となりました。 幕末の戊辰戦争では、会津が戦場となり…
江戸時代、水運や仙台と山形を結ぶ街道の分岐点として、 村田町は賑わっていました。 ここでは紅花や藍を仙南地方で買い集め、 江戸や上方へ運ぶ商取引を行っていました。 当時の栄華を伝える豪勢な店蔵が、 今も町の中心部に残っています。
福島県の南会津にある大内宿は、 日光今市から会津若松を結んでいた 会津西街道(下野街道)の宿場町でした。 ここは下郷町の中でも山手にあり、 半農半宿の宿場でした。 茅葺屋根の残る30軒程の民家は、 今は蕎麦屋や土産物屋に変わっていました。