2024-01-01から1年間の記事一覧

上野東照宮~上野恩賜公園内

上野東照宮は、徳川家康を祀る神社で、 藤堂高虎が自分の敷地内で、創建して その孫の家光が1651年に改築したものです。 その後の、彰義隊の上野戦争や太平洋戦争の東京大空襲にも 燃えずに、建っています。

津和野

津和野は、島根県の西の端の山間にある盆地で 江戸時代は、小さな藩の城下町でした。 石州瓦の赤い屋根が並ぶ本町通りには 、大店の商家が店舗を並べていました。

烏城(岡山城)

慶長2年(1597年)豊臣政権の 五大老の一人の宇喜多秀家が築いた 三層六階の天守は不当辺五角形をなしています。 ここの城を建てた宇喜多秀家は、関ケ原の合戦後 改易になり、八丈島に流罪になり、 二度と岡山に戻ることはありませんでした。

新町通り~近江八幡

JR近江八幡駅の北2キロにある新町通りは、 江戸末から明治大正にかけて建てられた 大店の八幡商人の本宅が立ち並ぶ所でした。 近江八幡商人は、本拠をここに置き、商才を頼りに 他国に進出して、江戸日本橋に店を構えました。

府内城~豊後の国

大分市にある府内城は、大友宗麟が 造った城ではありません。 府内城は、安土桃山時代後期に、福原直高が築城をはじめ 竹中重利が完成させた城で、四重の天守があったとされます。 天守は江戸時代に焼失し、大手門は昭和20年の 空襲で焼失して、その後に、外…

七卿落ち遺跡「鞆の浦」太田家住宅

潮待ちの港で知られる鞆の浦は、広島県東部の 瀬戸内海沿いにありました。 鞆の浦の港から続く路地には、 保命酒の造り酒屋の中村家がありました。 ここは、京の政変で都落ちした七卿が、 しばらく滞在しました。 その中村家を受け継いだのが太田家です

白壁土蔵の街並み~飛騨古川

瀬戸川沿いに、白壁土蔵の街並みが続く飛騨古川は 古い城下町で、造り酒屋や和蝋燭屋などの お店が並んでいました. 瀬戸川には、色とりどりの鯉が泳いでいました。 この瀬戸川は、冬場は雪の捨て場の流雪溝になるため 鯉は城跡の池にその間、お引越します。

大森~石見銀山鉱山町

石見の国の石見銀山は、最盛期日本最大の銀山で世界の 銀産出量の三分の一を占めていました。 そんな石見銀山は石見の国 今の島根県にありました。 当時の鉱山の労働は過酷で、酸欠に粉塵などで 三十歳まで生き延びた鉱夫は、長寿のお祝いをしたそうです。

長崎三福寺 興福禅寺

長崎の寺町の片側が石垣の路地を歩いて行くと 赤い山門が印象的な興福禅寺がありました。 ここは長崎三福寺の一つに数えられる この寺は東明山興福禅寺という 黄檗宗の唐寺で、隠元和尚ゆかりの寺です。 寛永元年に創設されたお寺です。 黄檗宗の最古のお寺…

広島城(鯉城)

広島太田川の三角州に、広島城はあります。 この城は、安土桃山時代に毛利輝元に よって築かれた城で、関ケ原後の 毛利家の減封により、福島氏から 浅野氏に城主が変わりました。 築かれた当時は、大坂城に次ぐ規模の城でした。 この城は戦前の国宝になった…

大玄関門~西本願寺

京都の堀川通に面する西本願寺は、 浄土真宗本願寺派の大本山です。 南の北小路から入ると唐門がありその先に 大玄関門がありました。 この大玄関門は、大法要の時しか開けない門で、 この門の先は、龍谷大学のキャンパスになっていました。

和歌山城~紀伊の国

大阪から南に下ると、紀ノ川を越えると 紀伊の国和歌山に入ります。 ここは徳川御三家の一つ紀州徳川家の城下町で 虎伏山の頂上に築かれた和歌山城(虎伏城)を根拠に 五十五万五千石の領地がありました。 天守曲輪と楠門 戦前の国宝になりましたが、昭和2…

海野宿~北國街道

中山道を追分で別れ、小諸、海野、上田と進み 善光寺を経由して、直江津で北陸道と合流していた 北國街道は、参勤交代の大名や役人または、善光善光寺参り 佐渡の金の江戸までの輸送に使われていました。 街道の脇に水路があり、その脇に柳が植えられていま…

大内宿~下郷

下野街道(会津西街道)の宿場町の大内宿は、 下郷町の山の中にある宿場で、半宿半農の宿場でした。 街道の両脇に茅葺屋根の旅籠が並びます。 今は宿をやっている所は僅かで、飲食店か土産物屋をしていました。

高梁商家資料館~岡山

高梁川が南北に流れる、高梁の本町通りには 大きな商家が建っていました。 ここは池上邸と言って、享保年間に小間物屋から始め 両替商や高瀬舟の船主から醤油の醸造で財を成した 豪商でした。 醤油の醸造道具が展示されていました。

鶴ヶ城~会津若松

戊辰戦争の激戦地となった会津若松の鶴ヶ城は、 元は蘆名氏の黒川城で、その城を伊達政宗が攻め滅ぼし 居城を米沢城から移しました。しかし、政宗が豊臣秀吉に臣従し たことで、この城は召し上げられ、米沢に戻りました。 そのあとは、蒲生氏郷が入り、城下…

村田町~仙南地方

宮城県の仙南地方にある、村田町は、 江戸時代、水運を生かして 仙南地方で紅花の集散地として栄えました。 その村田町には、なまこ壁を多く使った店舗と 壮大な表門がセットになった店蔵が続きます。 右側はカネ正といって創業 天保12年の かねしょう時の…

桂浜~土佐の国

高知市浦戸にある桂浜は、太平洋を臨む 海岸で、長宗我部時代のお城のあった場所で 坂本龍馬像が海に向かい建っています。 今は水族館や竜馬記念館が建っています

星巌寺~小城

小城鍋島家の菩提寺の星巌寺があります。 その楼門は柵がしてあり、入れませんでした. この奥に五百羅漢の像があり、 200体ほど数えることが出来ました。 その奥が小城鍋島家の墓所になっていました。

肥前浜町~長崎街道

旧長崎街道の脇街道は、有明海の西側を通り 長崎を結んでいました。 その宿場町の、肥前浜宿が、有明海の西奥 にありました。 江戸時代ここでは、酒や醤油の醸造が行われ 栄えた所でした。

望闕楼~建仁寺

鎌倉幕府の二代将軍源頼家が創建した建仁寺は 建仁2年(1202年)臨済宗開祖栄西の開山です。 その三門は、大正時代に静岡のお寺から移されたもので 望闕楼を書かれた額があります。 望闕楼とは御所を望む楼閣と云う意味です。 この楼上には、釈迦如来、…

丹波篠山河原町

今は兵庫県になっている丹波の篠山城は、 徳川家康が関ヶ原後に、西国大名と豊臣家 お押さえとして築城した城で、天下普請で 六か月の工期で造られました。 そんな城下町に、古い商人町の河原町がありました。 ここの商家は、間口はそう広くなく、奥行きが深…

今井町~橿原市

戦国時代の寺内町が原型の橿原市の今井町は、 堀を巡らし門を上げ、兵力を蓄え、他からの介入を拒みました。 そんな今井町は、本願寺の大坂退去で、武装解除して その後は自治都市として発展しました。 「大和の金は今井に七分」と謳われれ程に、栄えました

五條新町~大和国

吉野川が東西に流れる五條は、 江戸時代の初め、二見に城のある 城下町で、五條村と二見の間に新町が企画され 出来たのが五條新町でした。 この先は城のあった二見に向かいます。 この道の先は、紀州に行きつきます。

新勝寺表参道残像

新勝寺の表参道に大野屋旅館が建っていました。 初めは江戸中期に蝋燭屋として創業し、その後旅籠となり 三階建ての楼閣のある旅館として知られていました。 最近はうなぎ屋や漬物となっていました。 令和3年に取り壊されて、今はもうありません。

かやぶきの里美山

由良川の源流が山々を縫って流れる 美山は、かやぶきの里と呼ばれる 茅葺屋根の農家の里でした。 鯖街道が集落を通る美山は、 ほとんどの人が林業に携わっています。

佐原~小野川沿い

千葉県の北部の利根川沿いに水郷で 知られる佐原がありました。 ここは、江戸時代東北の物資が利根川経由で入る場合 小野川沿いの商人が仲立ちをしました。 そんな訳で、小野川沿いには古い商家の街並みが残ります。 ここは正上醤油という古い商家で、 小野…

坂越大路~赤穂市

坂越は江戸時代前期に、北前船の西回り航路の拠点として、 豪商たちが回船業を営み、坂越浦には西回り航路の大型廻船 31隻や内海用の小型廻船15隻が犇めいていました。 廻船はブランド塩の「赤穂の塩」 を積み込みました。 そんな坂越浦から陸に向かう坂…

石火矢町武家屋敷~高梁

高梁川が南北に流れる岡山県高梁市は、 備中松山城の城下町で、石火矢町に武家屋敷が建っていました。 旧折井家は、家禄百六十石の馬回り役を務める武士でした。

中津川宿~旧中山道

旧中山道の45番目の宿場町の中津川宿は、 美濃国恵那郡中津川村にありました。 ここは、木曾の入り口にあたり、東美濃随一の商業の町で あり、尾張藩重臣山村甚兵衛の知行地でした。 この造り酒屋を過ぎると、街道は鍵の手状に直角に曲がります。