2023-06-01から1ヶ月間の記事一覧
山口県の室津半島にある柳井は、 江戸時代岩国藩の御納戸と呼ばれた 商都で、今でも白壁の街並みが残っています。 甘露醤油で知られる醸造元では、 今でも醤油を作っていました。
京都の堀川通りに西本願寺がありますが この堀川通りを横断する形で北小路通りがあります。 もともと北小路通りに堀川通りが後から出来たもので その入り口には、門があります。 この門を入ると、唐門があり、その先に玄関門、 龍谷大学のキャンパスへと繋が…
下野街道(会津西街道)は、日光今宿から 会津若松を結ぶ街道で、その下郷での宿場が大内宿でした。 ここは、かなりの山間地で、半宿半農の宿場でした。 街道の両脇に茅葺屋根の旅籠が並び、 当時の旅に思いを馳せました。
兵庫県の西部にある龍野は、 揖保川が南北に流れる城下町で 江戸時代は脇坂氏の5万3千石の城下町でした。 ここは揖保乃糸で知られる素麺の里で 薄口しょうゆ発祥の地としても知られます。 ヒガシマル醬油の旧本社は、赤レンガの建物でした。
旧中山道の43番目の宿場町馬籠は、 中央南アルプスの南端の山の尾根道に 出来た宿場で、町を貫く街道は、坂道になっています。 この宿場の本陣の息子に生まれた島崎藤村は ここで小年時代を過ごしました。 本陣跡には、今は藤村記念館が建っています。
島根県の西の端の山間に津和野がありました。 津和野は、江戸時代四万三千石の 小さな大名の城下町でした。 藩の家老や重臣の邸宅が並ぶ殿町に続く本町には 大店の商家が並びます。 右の商家は、三松堂菓心庵という和菓子のお店でした。
島根県の太田市にある石見銀山は 戦国時代から江戸時代に採掘が行われた 日本最大の銀鉱山で、最盛期には 日本が世界の銀産出の三分の一を占めたといわれます。 そんな石見銀山の鉱山町の大森には、 鉱山を支えた豪商や幕府の役人の邸宅が残り 古い町並みが…
会津若松の七日町通りから少し中に入った所に 白壁土蔵造りの店舗がありました。 ここは味噌田楽の料理屋さんで 隣にある創業1834年の味噌屋さんの店でした。
潮待ちの港として知られる鞆の浦は、瀬戸内海の中間の 広島県福山市にありました。 昔の港町なので、港自体もそう広くはなく この奥の港町も、路地は狭く、 軽自動車が一台やっと通れるぐらいの 路地もざらにあります。 そんな町中に、もとは呉服店で、その…
琵琶湖の東岸の八幡山の南麓にある日牟禮八幡宮は 創建二千年以上という伝承のある八幡宮です。 古くから近江町人の信仰を集める神社で、 二大火祭の「左義長まつり」と「八幡まつり」は 国の選択無形民俗文化財に指定されています。
栃木市は江戸時代から日光例幣使街道の宿場町として、 また、江戸との舟運で栄えた問屋町として 北関東の商都と呼ばれていました。 蔵の街大通りには、昔ながらの見世蔵と呼ばれる 店舗が今も使われていました。
栃木の巴波川河畔にある塚田家は、江戸時代後期の 弘化年間から木材回漕問屋を営んでいました。 丸太で筏を組んで、行は一昼夜、帰りは三昼夜をかけ 江戸深川の木場まで、運んでいました。 黒塀の中の邸宅は、数棟の蔵や、 屋敷が連なっていました。
津和野は、山陰の山口県との境にある 山間の盆地にありました。 ここは、津和野町で、江戸時代は 亀井氏の4万石位の城下町でした。 家老の屋敷が並ぶ殿町から続く本町通りには 大きな造り酒屋が、三軒も建っていました。
旭川河畔に建つ岡山城は、天守の横にある 廊下門から本丸に入り、石垣沿いに一旦南の端まで行き 不明門(あかずのもん)から御殿のあった 本段に入ります。 この不明門は開かず門で、この先は 藩主の暮す本丸御殿に入ります。
山陰の石見にある津和野は、江戸時代、 亀井氏の城下町で、町を見下ろす山の上に お城がありました。 殿街には、筆頭家老の多胡家の屋敷門が残っていました。 多胡家は家禄五百石の筆頭家老で、今はこの門の中には、 屋敷はありませんでした。
富山県の南西に南砺市五箇山がありました。 ここは庄川の流域で、冬場は豪雪地帯で 合掌造りの民家の里として知られます。 そんな相倉集落では、紙漉き、養蚕、煙硝造りで 江戸時代米の収穫の不足を補いました。
坂越は、播磨灘に面する良港で、 瀬戸内海航路の中継地として知られていました。 江戸時代になると、坂越は瀬戸内海の回船業の拠点として 発展して、豪商が回船業に進出して、坂越湾には 大型廻船などが数多く停泊していました。 浜から続く坂越大路には、豪…
千葉県の北部の利根川に接する佐原は、水郷で 小野川沿いに古い商家の街並みを残します。 江戸時代東北の物資が、利根川経由で 江戸に入る場合、小野川沿いの商人が仲立ちをしました。 船着き場があるのは、正上醤油の店舗で 寛政12年創業のこの店は、初め…
千曲川の分流の尼ヶ渕に建つ上田城は、 第一次、第二次の上田合戦の舞台で、徳川の大軍を 真田昌幸が二度にわたり退けた城として知られます。 上田城は、第二次上田合戦で徳川軍を退けた後、関ヶ原の合戦で 東軍が勝利した為、真田親子は九度山に追放になり …
旧中山道の42番の宿場町の妻籠宿は 木曽郡南木曽町の蘭川東岸にありました。 上嵯峨屋は、ここの木賃宿でした。 木賃宿は、庶民の宿で、食料を持参して、燃料の薪代として 木賃を支払う形でした。 部屋は大部屋の、仕切り無で、雑魚寝でした。
鞍馬街道は、平安遷都頃の古道で、 京都御所から鞍馬寺までを結んでいました。 この街道は山城の国から丹波国、 若狭国まで伸びていました。 丹波の福知山から美山町に行く途中に 茅葺屋根の古民家がありました。 右から来ている曲がった道が、旧道で この古…
15世紀にお城が造られた村田町は、 仙南地方の紅花の集散地として 江戸時代に栄えました。 なまこ壁を多く使い「店蔵」と呼ばれる土蔵造りの店舗や 道に面した壮麗な表門が目を引きます。 村田商人は、仙南地方で紅花を買い付け、消費地の江戸大坂京都に …
四国香川県の東の端に、東かがわ市の引田があります。 ここは、播州灘に面する漁港で、 ハマチの養殖に初めて成功した所です。 そんな引田は、安土桃山時代は城下町で 醤油の生産が盛んで、江戸時代、江戸や大阪に 船で出荷して、豪商や回船問屋が出現するほ…
今は名鉄名古屋本線の有松駅の南にある 有松は、東海道が整備される前は 荒涼とした松林が点在する丘陵でした。 尾張藩の地域振興策で移住が進み、絞り染めの技術が流入して 有松は豊かな商人の邸宅や蔵の立ち並ぶ街に変貌していきました。 有松絞の店舗兼住…
たつのの町中を歩いていると お寺が目につきました。 浄土真宗の大谷派の寺院が多いな思いました。 ここは、如来寺と言って、500年の歴史がある寺で 藩主の脇坂氏の菩提寺となった寺で、西山浄土宗のお寺でした。
伊勢神宮内宮前のおはらい町は、宇治橋から 五十鈴川沿いに続くおよそ八百メートル石畳の通りで、 この通りの両側に伊勢路独特の切妻、妻入りの商家が立ち並びます。 おはらい町の途中に、おかげ横丁があります。 伊勢うどんに手捏ね寿司、貝時雨に赤福餅 伊…
清水寺から清水坂を下り、来迎院の先の 石段を右に降りると、三年坂で土産物屋や京銘菓 京漬物の店が並びます。 その先は、三年坂美術館があり、 京都の工芸品や彫金、蒔絵などを展示しています
栗子連峰の麓に位置する飯坂温泉は、 福島の奥座敷と呼ばれる温泉街で、古くは 日本武尊が東征のおり、立ち寄ったとされる 温泉で、当時は鯖湖の湯と呼ばれていました。 今は、摺川沿いに六十軒以上の温泉宿が建ち並びます。 この温泉には西行をはじめ、松尾…
杵築は、大分県の国東半島の 南の付け根にある城下町で 二つの丘の上が武家地で、 その間の谷が、商人が暮らす街でした。 武家地と商人の町を、坂が結んでいました。 ここは下りた所に、酢屋があったので 酢屋の坂と言われ、飴屋の坂、塩屋の坂、 番所の坂、…
揖保川が南北に流れる播州龍野の街並みには、 醤油屋さんが多くありました。 暖簾には、扇に一でオオギイチは末廣醤油の店舗でした。