2021-01-01から1ヶ月間の記事一覧
桜田門外の変で、横死した大老井伊直弼は、 近江彦根藩の15代藩主でした。 生まれは、13代藩主の14男で庶子でした。 17歳から32歳まで、300俵の部屋住みとして過ごし 自らを花の咲かない埋もれ木に例え、埋もれ木舎と名付けた 邸宅で不遇の日々を過ごしま…
愛媛県南部にある内子町は、 江戸時代木蠟の生産が盛んで ハゼの流通で財の成した商家の立ち並ぶ 町並みが残っています。 そんな内子町の本町通りに、大きな商家の建物がありました。 初めは劇場か何かと思っていましたが、ここは木蝋の生産を始めたとされる…
奈良町は奈良市街の南東に 位置する区域です。 奈良町は平城遷都の下京として 多くの寺社が置かれた事に始まります。 中世以降は、元興寺の境内に様々な手工業者が住み着き、 商工都市として発展しました。
岡崎のお城から八丁離れた、矢作川と東海道が交差した 場所の近くに八丁蔵通りがありました。 ここは、八丁味噌のカクキュウの 味噌蔵が立ち並ぶ裏通りです。 八丁味噌は、大豆と塩を原料に、 杉の大樽に矢作川の丸石を山ほど積み上げ、 2年間長期熟成し出来…
三州街道の宿場町として、信濃の国塩尻に 塩を送る塩の道として 足助宿で、馬の背に乗せ換えて、 塩を運んでいました。 そんな足助宿の商店の間に 細い登坂の路地がありました。 白壁にはさまれた狭い路地を登ると、宋恩寺というお寺 がありました。
岐阜県のほぼ中央に位置し飛騨山地の南にある 郡上市は長良川が流れています。 この町は、八幡山に城のある城下町でした。 明治4年の廃城令で、城は取り壊されて、 石垣を残すだけになりましたが 昭和8年大垣城をモデルに、木造で再建された 日本で一番古い…
高い石垣のてっぺんに小さな天守を頂くお城は、 四国香川県にある丸亀城です。 ここは、標高66メートルの亀山に建てられた平山城で、 現存する12の天守の中でも一番小さな天守で、 慶長2年、生駒親正によって造られました。 堀を渡ると、大手二の門があり…
東海道の47番目の宿場町関宿は、 鈴鹿山地の山裾にありました。 ここは、日本三大古関の一つの 鈴鹿の関があった所で、今でも 伝統的町家が二百棟余り残っています。 伊藤本陣の向かい側に大きなむくり屋根 (屋根の傾斜が丸くなっている)の町家がありまし…
松本は四百年に及ぶ城下町で、中町通りは 善光寺街道が東西に走る町でした。 主に酒造業や呉服の問屋が集まっていましたが 度重なる火事で、なまこ塀に土蔵の町に 変わって行きました。 今は、土蔵造りの家屋を生かし 一階は様々なお店になっています。
北房総の佐原の小野川沿いから 一筋西に入った、下新町通りに 今は使われていない古い商家がありました。 板張りの蔵の横に店舗がありましたが 人はいないようでした。
長良川と支流の吉田川が合流する 郡上八幡は、今は郡上市となっています。 水のきれいなところで、7月に開催される 郡上踊りも有名です。 そんな町の通りから入り込んだ場所に やなか水のこみちがありました。 町屋と町家の間に、小石を撒いたこみちがあり …
JRの成田駅から約八百メートル続く表参道は、 江戸時代から門前町として栄えていました。 参道には百五十店以上の飲食店やお土産屋さんが並びます。 特にうなぎ屋さんと旅館が目に留まりました。
江戸時代、防長2ヶ国の主になった長洲毛利藩は、 藩都を山陰の萩に置くように強制されましたが、 幕末に藩庁を、交通に便利な山陽の山口に移しました。 旧野村家住宅 野村家は、酒造を営む商家で、萩往還の街道に面していました。
長崎の大浦海岸通りに、旧香港上海銀行長崎支店の 石造りの建物があります。 ここは、明治37年の竣工で、支店廃止後、 警察署や歴史民俗資料館として使われてきました。
江戸後期から塩田の塩の生産が盛んになり、 遠く江戸大坂まで北前船で運ばれていました。 竹原は、広島県東部の瀬戸内海の港町でした。 そんな竹原の古い町並みには、塩だんな(塩田経営者)の家で、 明治5年に建てられた笠井邸が残っており、 ひな祭りなど…
岐阜県の北部の飛騨地方にある高山は、 白山山地や飛騨山脈に囲まれた盆地にありました。 江戸時代の初めは城下町で、 その後幕府の陣屋がおかれました。
川越の蔵造の街並み一番街は、 川越の県道39号線沿いにありました。 江戸の商家形式で一般的だった蔵造の商家は 今はほとんどなくなり、川越に残っていました。 ここの蔵造の商家は、現在も商店として 現役で使われています。
臼杵市の本町商店街に鑰屋の屋号で、 醤油味噌を商うカニ醬油店は、 創業慶長4年の今から400年以上前で、 美濃の武士であった可児孫右衛門の 子孫が代々受け継いでいます。
古い町並みも、日々変っています。 古い町家のあとに、鉄筋コンクリーㇳのビルが建ち 町の姿も変わっています。 この先の忠敬橋西側の空き地に、 3階建ての千葉商船のビルが建っています。
大分県臼杵市にある臼杵摩崖仏は、 平安時代後期から鎌倉時代に 刻まれたと考えられています。 優しいお顔をされていました。
赤い三門の崇福寺は、長崎三福寺の一つで、 黄檗宗の禅寺です。 赤いのは三門だけでなく、 峰門から大雄宝殿まで赤いのですが、 大雄宝殿と第一峰門は国宝で、 長崎にある四つの唐寺の一つです。
瀬戸内海に浮かぶ大崎下島にある御手洗は、 北前船の寄港地として賑わいました。 そんな御手洗の町中には、曲がりくねった 細い路地が巡っていました。 郵便局の前の四つ角を進むと床屋さん、 その先は狭くなって、若胡子屋に繋がっていました。
長良川が南北に流れる美濃市は、 美濃紙で知られる和紙の町です。 江戸時代は、長良川河畔の 小倉山に城のある城下町でした。 その町なかに、うだつの上がる町並みがありました。
千葉県の北東にある佐原は、利根川に接する町で、 小野川の流域に、古い商家の町並みありました。 小野川に架かる共栄橋のたもとには、古い町屋を利用した 洋麺のお店がありました。
中山道の43番目の宿場町馬籠宿は、 木曽路11宿の一番南の宿場でした。 今は岐阜県の中津川市に属しています。 宿場が山の尾根道に建っているので、 宿場を通る街道も、かなりの坂道になっています。
愛媛県の南予に、江戸時代、宇和島街道の宿場町、 四国八十八か所の札所明石寺の門前町として、 賑わった卯之町がありました。 ここは宇和島藩の在郷町でした。 その古い町並みがある一角に、今は宿泊出来ない旅館がありました。 松屋旅館と言って、創業は江…
今は、うきは市という名になっていますが、 吉井町は筑後川の中流域にある 筑後久留米と天領日田を結ぶ豊後街道の宿場でした。 江戸中期から菜種の精油や、酒造、精蝋などが盛んとなり 吉井銀(よしいかね)とよばれる有力商人の金融活動により 繁栄しました…