2021-07-01から1ヶ月間の記事一覧
千葉県の北房総に水郷で知られた佐原があります。 ここは江戸時代東北の物資が利根川経由で入るとき、 小野川沿いの商人が仲立ちをしました。 そんな小野川沿いに、船宿がありました。
咸宜園は全寮制の私塾で、 門人は日本全国に及びます。 飛騨の高山を訪れた時、ここにも 九州の筑後川の上流の日田まで、 咸宜園に入門した学者がいました。 全国68国中66国から入門者がありました。 そんな創設者の広瀬淡窓は儒学者で、詩人でした。 咸…
江戸時代天領であった豊後国日田に 咸宜園はありました。 ここは、広瀬淡窓が興した私塾で、文化14年から、 一時閉鎖もありましたが、明治30年まで続き 80年間に4800人の入門者があり、日本最大の私塾です。 咸宜園では、入学金を払い名簿に名を記入すると、…
奈良県の北東部の山の中に、 真言宗室生寺派の寺院室生寺があります。 ここは興福寺の末寺であったのを、 江戸時代に興福寺を離れ 真言宗の寺院になりました。 真言宗の高野山は女人禁制でしたが、 ここは参拝が許された女高野でした。
川越の蔵造り町並みに 時の鐘はありました。 寛永4年から11年にかけて、川越藩主酒井忠勝が 今の場所に建てたのが最初と言われています。 今でも、蔵造の街並みに、日に4回、時を知らせます。
京都の中京区二条通堀川にある二条城は、 江戸時代になって造られた城です。 実は、二条城は足利氏、織田氏、 豊臣氏の時代の物がありました。 今現存している城は徳川家が建てたものです。 明治になって皇室の離宮になりました。
倉敷の美観地区にある倉敷川河畔には、 江戸時代、年貢米の集積地で、 米蔵や店舗が軒を連ねていました。 そんな江戸末期の米蔵を使った博物館で 国内外の民芸品を展示する 倉敷民芸館がありました。
おかげ横丁は、伊勢神宮内宮前のおはらい町にあります。 江戸の後期から明治の初めに流行したおかげ参りの 当時の伊勢路の建物を移築して、 おかげ参りのブームの熱気を再現しています。
岐阜県の北部の飛騨地方にある高山は、 白山山地と飛騨山脈に囲まれた盆地で 冬場はかなりの降雪があります。 そんな高山は、江戸時代城下町で、 古い城下町の面影が残ります。
信州松本にある松本城には、 月見櫓という場所があります。 これは、3代将軍の家光が上洛の帰りに、 松本城が宿所になる予定で、 増築されたところでしたが、変更され 家光は松本城に寄りませんでした。 右側(東)の赤い欄干が鮮やかな櫓です。
豊後の国東半島の山の中に、 天台宗の文殊仙寺があります。 参道の入り口に、おどけたような 仁王像が建ち、石段を登っていくと 奥の院文殊堂には秘仏の文殊菩薩像が 鎮座します。 この寺の一番奥の崖には、石壇に羅漢さんが 皆さんが来るのをお待ちしていま…
長崎の唐人屋敷通りに、元文元年(1736年)、 南京地方の人々が航海安全を祈願し、 航海安全の女神である天后聖母を祀ったお堂があります。
岡山県倉敷市と香川県坂出市を10本の橋で 結ぶ瀬戸大橋は、自動車道と鉄道橋の併用橋です。 1988年に全長12.3キロが開通しました。
川越の仲町にある山崎美術館は、 連雀の交差点から大正浪漫夢通りを 左に折れるとすぐの蔵造の建物です。 ここは、隣にある和菓子の亀屋さんが やっているところで 川越出身で明治に活躍した画家の 橋本雅邦の作品を展示しています。
和歌山県の県庁所在地の和歌山市は、 思いっきり北に寄っています。 それは紀ノ川の河口にお城が 建てられたからでしょうが、 お城を建てたのは、豊臣秀長で その後、浅野家の後、徳川御三家の一つ 紀州徳川家になりました。 堀を渡る一の橋と大手門は、浅野…
千葉県の北部にある香取市に 水郷の佐原がありました。 ここは伊能忠敬の旧宅があることでも知られる、 古い商家の町並みを、小野川沿いに残します。 この先の忠敬橋の手前の空き地に 三階建ての千葉商船のビルが建っていました。
戦国時代の寺内町が原型の今井町は、 奈良県橿原市にあります。 堀を深く掘り、武力を蓄え、他の勢力の介入を拒絶した 今井町は、江戸時代は、「大和の金は今井に七分』と謳われるほど 繁栄しました。
川越の駅の方から歩いて蔵造の街並みに向かう途中の 大正浪漫夢通りの突き当りに、蔵造の商家がありました。 ここは、観光案内所になっていますが、元は笠間家住宅で、 呉服店を営んで居ました。
三井財閥の三井本家の発祥の地は、 三重県の松坂です。 屋号は越後屋で、江戸に呉服店を開き、 両替商も始めました。 松坂に残る門、敷地は公園になっています。
旧中山道の宿場町の奈良井宿は、 今は長野県塩尻市にあります。 ここは、木曽11宿の中でも一番標高の高い宿場で 難所の鳥居峠を控える所で、 「奈良井千軒」と謳われた宿場でした。
琵琶湖の東側にある東側にある 五個荘金堂は、江戸末期から昭和の初期にかけて 活躍した近江商人の故郷でした。 ここの近江商人は、農家の副業として行商を始め 呉服、綿製品、絹織物を扱い商圏を拡大して行きました。 やがて京大坂江戸に店を構える商人も現…
数多くの城があった日本でも、 明治の廃城令で取り壊されて 現在天守で残っているのは十二基程で、 その中でも天守と本丸御殿が 揃って残っているのは高知城だけです。
醤油発祥の地として知られる湯浅町は、 和歌山県の有田川の南の入り江にありました。 話しが長くなるので、端折って語ると、 鎌倉時代に、勉強の好きな覚心というお坊さんが、 中国の宋に渡り、径山寺で修業して、金山寺味噌のもと を習得して、帰国後に、そ…
旧中山道の宿場町妻籠宿は、 木曾郡南木曾町にありました。 松代屋の看板を掲げる旅館は、創業1804年の宿だそうです。
伊勢市の伊勢神宮内宮前のおはらい町にある おかげ横丁は、伊勢神宮へのおかげ参りが流行った 江戸末から明治初めの伊勢路の建物を移築して、 当時の熱気を再現しています。
大分市の豊後国府内にある城です。 豊後と言えば、大友氏が守護大名で 戦国大名になっていきましたが、 大友氏の城ではありません。 時代的にはそのあとの、安土桃山時代後期の城で、 大友氏は同じ府内の大友館に住んでいました。 四重の天守のある城でした…
川越の連雀の交差点から、大正浪漫通りを歩いて行くと、 蔵造の店舗が目に入りました。 ここはウッドベイカーズというピザ屋さんで 建物は100年以上経っているとの事でした。
豊前街道は。肥後熊本と豊前小倉を結んでいました。 熊本を出た街道は北上し菊池川を渡り、山鹿の町に入るのですが 江戸時代この場所には惣門があり、町を守っていました。 また、この惣門付近には菊池川の川湊があり、物資の集散地で、 コメの問屋や麹屋、…
木蝋で財を成した本芳我家は、明治22年に建てられたもので 漆喰塗籠の建物で、鏝絵による装飾が素晴らしく、 また手前の大村家住宅は、寛政5年に建てられた内子町で、 一番大きい町屋です。 大村家は明治期、藍染めもやっていました。
坂を降りた所に酢屋があったので、 酢屋の坂と呼ばれています。 ここは、大分県の国東半島の南の付け根にある、 杵築という町で、江戸時代三万石の小さな城下町でした。 南と北に岡があり、武家屋敷が建ちならんでいました。 その間の谷が、商人の町でした。