2024-02-01から1ヶ月間の記事一覧
岡山県の北東部に美作国があり、 国府は津山にありました。 津山は県北の最大の都市で、出雲街道が通る 城下町でした。 津山の町中に、古い洋館が建っていました。 ここは元は隣に建っている中島病院の旧本館で 今は城西浪漫館なっていました。
平城遷都の下京として、寺社が建てられた 奈良町は、中世以降、元興寺の境内に様々な手工業者が住み 商工都市となりました。 そんな奈良町は、今度の大戦で空襲の 被害を受けなかったので、狭い路地に古い町屋が残りました。
今の大分県臼杵市の八町大路の本町商店街に 慶長4年創業の鑰屋があります。 ここは創業420年を迎えるという カニ醤油カニ味噌のカニ醬油合資会社というお店です。 このお店の御先祖は、美濃から来た武士で、主君の稲葉家とともに 美濃から移り、その後味…
今は京都文化博物館の別館なっているいる 旧日本銀行の京都支店が、地下鉄東西線の走る御池通り から南に下る高倉通りにありました。 ここは、建築家の辰野金吾が手掛けた 明治39年築の赤煉瓦の建物です。 京都文化博物館は、京都の歴史や文化を紹介するた…
豊後の国の国府は、今の大分市にありました。 そんな大分市には、府内城がありますが、 築城は安土桃山時代後期で、完成は関ヶ原の後でした。 四重の天守があった様ですが、寛保3年の大火で焼失し 昭和20年の大分空襲で、ほとんどの建物を焼失し その後、…
旧中山道の34番目の宿場町奈良井宿は、 木曾路11宿の中でも、一番標高の高い所で 難所の鳥居峠を控えるため、ここで一泊する旅人が多く 奈良井千軒と呼ばれ栄えた宿場でした。 木曽の木材を使った漆器や曲げ物、櫛といった 木工製品の土産物屋や信州そば…
広島県の東部の瀬戸内海沿いに、 海上交通の要衝として栄えた 竹原の町がありました。 ここは江戸後期からは塩田の塩の生産が盛んとなり 遠く江戸大坂まで運ばれていました。 そんな竹原の古い町並みには、明治時代の郵便局や 醤油工場などの古い建物が残っ…
JR栃木駅から続く蔵の街大通りには、 蔵造りの店舗が点在します。 ここは看板には肥料店ですが、裏まで建物が続き, 中はとっても広いようです
花見小路は京都の南北の通りで、北は三条通から 南は安井北門通りまでの 祇園の中心を通る通りで、 四条通の北と南で趣が異なります。 北はバーやクラブがテナントで入るビル街で、 南は元々は建仁寺の敷地で、由緒ある料理屋や茶屋が 建っています。
奈良県の南西部に五條があります。 ここは紀伊街道と大和街道の交差する 交通の要所で、江戸の初め、二見に城を建てた 松倉重政がもともとあった五條村との間に 新町を企画して出来た町が、五條新町でした。 今は商餅一ツ橋の店は、看板はそのままで チョコ…
河崎は伊勢参りの参拝客が、伊勢湾を 渡って初めて辿り着く勢田川の河岸でした。 江戸時代、日本各地から集まる物資を売りさばく 問屋とその蔵が、勢田川沿いに立ち並んでいました。 今は営業していないのか、 大きなな商家の戸や窓は閉じられていました。
近江商人のもう一つの故郷の五箇荘金堂は、 琵琶湖の東側にあり、安土城の山一つ越えた所にありました。 ここの近江商人は、行商から始め、江戸後期になると 呉服や綿絹製品を扱い、商圏を日本全国に拡大し 江戸京都大坂に店を持ち、明治以降は、大陸に進出…
竹原は、古くからの瀬戸内海交通の拠点として発展し 港町として知られていました。 そんな竹原は、江戸後期から塩田の塩の生産が盛んとなり 遠く江戸大坂まで船で運ばれました。 古い町並みの本町通りには、浜だんなの笠井邸があります。 浜旦那とは、塩田経…
松下村塾は、江戸末期の山口県萩にあった私塾で、 吉田松陰の叔父の玉木文之進が始めました。 その私塾を松陰が引き継ぎ、塾生は五十人ほどで その塾生が倒幕の志士となっていき、 そのほとんどが路頭に倒れ、 明治維新を見る事は出来ませんでした。 わずか…
岐阜県の南東部にある恵那郡に 女城主で知られる岩村城下があります。 ここの女城主は、織田信長の叔母のおつやの方で 最後は悲劇的な処刑で終わりました。 お城は、山城で。今は石垣のみが残っています。 だけど、城下町は、生き残り商家の街並みが残ってい…
三州街道は信州塩尻から、三河の国 岡崎を結んでいました。 三河湾で採れた塩を、矢作川の川舟で 足助まで運び、そこで、馬の背に乗せ換えて 中馬で、塩尻まで運んでいました。 足助宿には、塩を扱う問屋があり、 人馬の手配から、塩の保管なども 行っていま…
飛騨地方にある白川郷は、庄川の流域にある 合掌造りの民家の里でした。 冬場は豪雪地帯で、雪に閉ざさるこの里は 今でも人々が生活の場として住み続けています。 昔は、合掌造り3~4階部分で養蚕が冬場の農作業でした。
全国九百社ある愛宕神社の総本宮の愛宕神社は 京都愛宕山にあります。 古くから火伏の神として知られる愛宕神社の 壱の鳥居があるのが鳥居本で、愛宕街道の途中にあります。 壱の鳥居の前後には茅葺の茶屋が建ち、それから下ると 農家の家々があります。
豊臣秀次が安土に近い八幡山に城を築き、 城下と琵琶湖を結ぶ運河を、城の外堀を兼ねて 造ったことに始まります。 八幡堀の開削によって、物資の流通の増大で、商業が発達して 八幡商人(近江商人)が誕生しました。
武蔵野台地の北東の端にあった川越城は、 今は大半が失われて、そのあとに 博物館や美術館、高校が建っています。 現存する建物は、嘉永元年(1848年)に建てられた 本丸御殿です。本丸御殿が現存するのは、意外に 少なく、高知城と川越城のみです。 この城…
越前大野は、信長の家臣の金森長近が 越前平定の恩賞で3万石を得て、亀山に城を築いて 城下を碁盤の目の様に整えました。 そんな大野には、美濃表に通じる七間通りが、 ここのメインストリートで、大店の商家が 軒を並べます。 ここは七間通りに店を出す、…
浄土真宗大谷派に属する善徳寺は、室町時代 加賀国河北郡井家庄で創建されましたが、越中国福光を経て 今の城端に移りました。 手前が善徳寺会館で、奥が善徳寺の本堂ではなく山門です。 山門の奥が本堂ですが、山門が大きすぎて 本堂より目立っています
九州を代表する大河の筑後川を遡ると 大分県の西部の、山々が折り重なる盆地に出ます。 ここは、日田と言って、江戸時代は幕府の天領だった所です。 この地はものなりもよく、租税がそう高くなかった為 蔵のある富農が目立ちます。 そんな日田に、江戸末期 …
岡山県の北東部に、美作国の国府があった津山があります。 ここは江戸時代は城下町で、城の東側の出雲街道上に 城東町並みがあります。 なまこ壁に袖壁、虫籠窓などの商家がたちならびます。 造り酒屋の蔵の路地を抜けると、東西に吉井川が流れます。
大正10年に建てられた郷土館は、 藩政時代の資料や文化人の 遺品遺稿を所蔵しています。 萩津和野線の道路が、津和野川を渡る 津和野大橋のそばにあります。
岐阜県恵那市の明智町にある日本大正村は、 古き良き時代であった大正時代にスポットをあて 当時の建物を保存し、当時をしのぶメッカにすることを希求 しているようです。 大正村役場の先は、石畳の坂を上ると 突き当りに絵画館が建っていました。
栗子連峰の麓にある飯坂温泉は、福島の奥座敷とも呼ばれ 日本武尊が東征のおり立ち寄ったと言われる 古い温泉です。 当時は鯖湖の湯と呼ばれ、俳諧人も数多く訪れ、 歌を残しています。
女城主で知られる岩村城下は、岐阜県 恵那市にありました。 この女城主は、織田信長の叔母に当たる おつやの方で、最後は、信長に処刑される 悲劇の人でした。 そんなおつやの方が守った岩村城は山城で 今では石垣だけは残っています。 山の麓に城下である岩…