2022-01-01から1ヶ月間の記事一覧
今は広島県福山市に属している鞆の浦は、 潮待ちの港として知られます。 瀬戸内海の中間に位置する鞆の浦は、 干満による潮の流れが変わり、 西にも東にも行くことができました。 呉服店から船具屋に変わった商家の蔵の横の道は 登坂の狭い路地が続いていま…
伏見城といえば豊臣秀吉の隠居城 として造られました。 しかし、最初の伏見城は慶長伏見大地震で崩れ、 別の場所に再建されました。 豊臣秀吉の死後、関ヶ原の合戦が起こりましたが、 その前哨戦という形で徳川方が伏見城に 籠りましたが、落城しました。 伏…
越前大野のお城の西側にある外堀(百閒堀)の三の丸に 田村又左衛門邸があります。 この邸宅は田村又左衛門邸といって、 三百石で家老職を務めていました。
京都の西北にある鳥居本は、ずーと昔は、 化野(あだしの)と呼ばれ京都の風葬地でした。 今は、化野念仏寺などで供養されて、 愛宕神社の一の鳥居の鳥居前町として、すっかり 観光地化されています。 一の鳥居のには、茅葺の茶店があり、それから下ると 農…
川越の蔵造りの街並みに、time is maney ならぬ「時の鐘」がありました。 ここは、川越藩主酒井忠勝が建てた鐘撞堂が最初で、 その後何回も建て直されています。 昔は鐘を撞く鐘守がいましたが、今では、自動で 日に4回、蔵造りの街並みに時を知らせます。
琵琶湖の東岸に、近江商人のもう一つの故郷 の五箇荘がありました。 ここの商人の活躍は、江戸の末期から始まりました。 初めは、呉服の行商から始め、江戸に店を持つものが出て、 明治以降は、海外進出を果たすものも出ました。
旧中山道の42番目の宿場町で知られる妻籠宿は、 南の馬籠宿から2里(8キロ)離れ、 宿の延長は2町30間あり、宿内には、問屋2軒と 本陣脇本陣1軒づつと、31軒の旅籠がありました。 また木曽路から飯田に抜ける 街道の追分がありました。
上野公園の端に、犬を連れ散歩している銅像があります。 西郷隆盛と愛犬のツンですが、西郷隆盛は明治の元勲で、 一人しかいなかった頃の陸軍大将でした。 上野といえば、官軍と上野寛永寺に立て籠もった 彰義隊との上野戦争の時には、西郷どんは 薩摩軍の司…
阿蘇山の噴火で出来た凝灰岩の丘を、 削って二王座の街並みができています。 お寺や武家屋敷の間に、狭い路地が、 巡っていました。 路地はくねくねと曲がっているので、 先が見通せません。
山口県の下関の街を関門海峡沿いに進むと、 長府という街に出ます。 今は下関市に含まれていますが、 ここは長州藩の支藩で、 だいたい五万石の小さな大名でした。 国道から少し中に入ると、 武家屋敷が続く通りがありました。
福井県越前大野は、城下町で、大店がひしめく 七間通は、美濃表に通じる街道につながっていました。 そんな七間通りには、「一子相伝『解毒丸』柳屋吉右衛門」 という看板を掲げる薬屋がありました。 解毒丸とはどんな薬なんでしょうね
長崎には、黄檗宗の唐寺の崇福寺、福済寺、 興福寺があり、長崎三福寺に数えられます。 崇福寺の大雄宝殿と第一峯門は国宝になっています。
河崎は、伊勢神宮の参拝客が伊勢湾を渡り、 最初にたどり着く河岸でした。 勢田川の河岸を中心に発達した町で、 室町から江戸時代に発展しました。 最盛期には日本全国から集まる物資を売りさばく問屋が軒を並べ 川沿いに、土蔵や店舗が集まっていました。 …
戦国時代の寺内町が原型の今井町は 奈良県の橿原市にありました。 今井町は戦国時代、堀を深くし、 武力を蓄え、他の勢力の介入を拒みました。 上品寺屋の屋号で酒造業を営む、河合家は17世紀の初めに ここに移住し、建物は18世紀の後半に建てられました。
北国街道は追分で中山道から別れ、 小諸、海野、上田と進み、善光寺を経て、 中津江で北陸道に合流していました。 そんな海野宿は、北陸道の大名の参勤交代や 善光寺参り、佐渡の金の輸送、役人の交代に 使われていましたが、明治以降は鉄道網の発達で寂れま…
千葉県の北東部の利根川に接する香取市に 水郷の佐原がありました。 ここは江戸時代東北の物資が 利根川経由で入る場合、 小野川沿いの商人が中継をしました。 小野川沿いに古い商家の町並みを残します。
愛媛県の南部の南予にある内子町は、江戸時代木蝋の 生産が盛んで、全国生産の30パーセントを占めていました。 そんな内子町に江戸中期から木蠟の生産を始めた 芳我家の本家の本芳我邸があります。 明治に最盛期を迎え、旭鶴の商標で海外輸出もしていました…
今の国会議事堂周辺にあった彦根藩上屋敷から、 時の大老井伊直弼が、登城の途中、桜田門外 (現在の警視庁交差点付近)で、 水戸藩浪人17名と薩摩藩1名に襲われたのは、 1860年(安政7年)3月の事で、桜田門外の変と呼ばれます。 跡 彦根藩上屋敷跡から桜田…
信州の上田盆地の北側の千曲川の分流の天ヶ淵 に面した城があります。 ここは上田城で、天正の第一次、慶長の第二次の 上田合戦の舞台です。 両合戦は、守備方真田家で、攻め手が徳川家の間で起き 守りの真田家の勝利で終わりました。 第2次の合戦後の関ケ原…
豊前街道は、肥後熊本から豊前小倉を結んでいました。 その最初の宿場町山鹿は、菊池川を渡ると、 惣門があり、山鹿の町を守っていました。 また、街道が菊池川を渡る地点には、川港があり 有明海を通して、大阪まで、主に米を運んでいました。 この惣門の近…
三重県伊勢市にある伊勢神宮内宮前にある、 おはらい町は宇治橋から五十鈴川沿いに およそ八百メートル続く石畳の通りで、 伊勢路独特の建物のお店がたちならびます。 、手捏ね寿司に伊勢うどん、赤福餅に、貝時雨、伊勢の特産品店が並びます。
兵庫県の西の端の播磨灘に面す地に 坂越はありました。 今は赤穂市に含まれていますが、 坂越は江戸時代、北前船の寄港地で、 豪商が廻船問屋を営み、 坂越浦には、大型廻船や内海用の小型廻船が 犇めいていました。 過ってのメインストリートの坂越大路には…
福井県の越前大野は古い城下町でした。 その城下に七間通りという美濃表に通じる メインストリートがあり 大店の店が並んでいました。 七間通りの先に「古美術、道具商」と看板を出すお店がありました。
富山県南砺市の山の中に、 合掌造りの郷の相倉集落がありました。 ここは、庄川の流域で、冬場豪雪地帯で 雪に埋もれます。 雪囲いの準備が大急ぎでされていました。 訪れたのは、雪が降る前の晩秋で、山々は紅葉していました。 もう今頃は、雪に埋もれてい…
明治の中頃、新橋と上野を結ぶ高架線が計画され、 明治の後期にその中央停車場として 大正3年に開業しました。
奈良県の中西部にある五條は、和歌山から 伊勢に至る紀伊街道と古都奈良から 熊野に至る大和街道の交差する場所でした。 紀伊街道の途中にお餅屋さんがあったのですが、 今はもう店を閉じられています。
日本で木造で再建された城で 一番古い城が、郡上市にある郡上八幡城です。 ここは、明治の廃城令で一旦石垣を残して すべてを廃棄され、昭和の初め頃、 大垣城などを手本に木造で再建されました。
古い城下町の面影を残す高山に、 幕府の陣屋が置かれ、 陣屋の支配へと変わりました。
瀬戸内海に浮かぶ大崎下島にある御手洗は、 北前船の寄港地でした。 この御手洗には、 神功皇后を始め、 菅原道真、加藤清正、坂本龍馬、伊能忠敬 シーボルトなどの有名人が訪れています。 北前船の寄港で賑わった御手洗の町中には、 曲がりくねった狭い 路…
富山県の南西部にある南砺市に、 庄川の流域の山間の集落の菅沼がありました。 ここは冬場は豪雪地帯で、深い雪に埋もれます。 その雪の降る前の短い紅葉の時期に訪れました。 木陰から覗くと、三角屋根の家が2軒、 おとぎの国に迷い込ん様に建っていました…