2023-01-01から1ヶ月間の記事一覧
讃岐の国の高松城は玉藻城とも呼ばれる海城で、 瀬戸内海から直接入る事が出来ました。 今は玉藻公園となり、丑寅櫓、月見櫓や 石垣が残っています。 丑寅櫓の対岸には琴電のレールが通っています。
長野県諏訪市に諏訪の浮き城と 呼ばれた高島城があります。 ここの城は、諏訪湖に接する城として造られましたが 江戸時代の初めの干拓で、今では諏訪湖の水面から かなり離れた場所にあります。 明治の廃城令で、堀と石垣だけの城となり 昭和45年に天守や…
福島県の南会津に、旧下野街道が通っており その宿場の大内宿がありました。 ここは、半農半宿の宿場で、宿を営む傍ら、 畑を耕していました。 茅葺屋根の宿が並んでいた街道沿いは、 土産物を売る店になっていました。
広島県の東部の瀬戸内海沿いに 鞆の浦はありました。 ここは古くからの港町として知られます。 瀬戸内海の中間地にあり、干満の差で、 東西の流れが生じます。 この流れを利用して、船を動かしていました。 という理由で船は、鞆の浦で潮待ちをしました。 狭…
橿原市の飛鳥川を蘇武橋で渡ると、 江戸時代以前から続く古い町並みの 今井町があります。 ここは戦国時代の寺内町が原型の街で、 他の勢力の介入を拒み、堀を深くし 武力を蓄えていました。 細くて狭い路地が続く町中に、 伝統的な町屋が五百軒程が残ります…
川越の蔵造りの街並みに、亀屋の看板を掲げる 亀屋栄泉は、明治以来サツマイモの お菓子を作っています。 川越は、サツマイモの芋菓子の街でした。
川越の連雀にある大正浪漫夢通りは、 大正から昭和の初期のレトロな 店舗が30軒ほど並ぶ通りで、過っては 銀座商店街と呼ばれ、埼玉隋一の商店街でした。 この通りに、築百年以上の蔵造りのイタリア料理の店舗が 1月21日に火災に遭い全焼したということ…
栃木市の蔵の街大通りに、とちぎ蔵の街観光館という 建物が、交差点の角にあります。 ここの建物は、過って八百金の名で知られた、 荒物や麻苧問屋を営んでいた田村家の 店舗や蔵、住居でした。 蔵は、造りがしっかりしていたのか、 アパートとしても使われ…
愛宕神社の壱の鳥居が建つ鳥居本の周辺は、 古くは化野(あだしの)と呼ばれ、京都の風葬地でした。 その後化野念仏寺などで供養され、 愛宕神社の鳥居前町として発展して来ました。 愛宕神社の一の鳥居の前後には 茅葺の茶店が今も建っていました。
旧中山道にある馬籠宿は、木曽路十一宿の 中でも一番南に位置する宿場です。 そんな馬籠宿は山の尾根道に出来た宿場なので 宿場を通る街道や旅籠すべてが坂になっています。 こんな登り窯の様な宿場は、下の町屋から出火したら 消す術がありません。 馬籠宿…
川越の蔵造りの街並みにある大沢家住宅は、 屋号は近江屋で、呉服太物を扱っていた 西村半衛門が寛政4年(1792年)に 建てた切り妻造りの建物で、 明治26年の川越大火でも、焼け残りました。 今は川越の蔵造りの街並みに残る 最古の蔵造りで、国の重要文化財…
江戸時代天領で、年貢米の集積地として栄えた この地では、倉敷川の両岸に大きな米蔵が立ち並んでいました。 その町並みは、川から離れた場所にも、 白壁格子戸の町屋が広がっていました。
香川県丸亀市の亀山に、 丸亀城はありました。 標高66メートルの石垣の上に、 少し小さめな天守が載っています。 石垣の上の櫓や塀が無い為かは、わかりませんが 天守は小さく見えましたが、 石垣の総高では、日本一高い城になっています。
北國街道海野宿は、千曲川が流れる 長野県の東部にありました。 北國街道は中山道を追分で別れ、小諸、海野、上田と進み 長野善光寺を通り、中津江で北陸道と合流していました。 街道の脇に建つ建物が大きい町屋がありました。明治になり鉄道網が発達して 宿…
栃木市の蔵のある町から少し離れた場所に、 嘉右衛門町はありました。 ここは天正年間に岡田嘉右衛門という武士が 荒れ地を開墾して、幕府から嘉右衛門新田村という名を得ました。 その後、この岡田家は豪農として残り ここの惣代名主になり、藩の陣屋が置か…
庄川の流域にある山間の集落の相倉は、 冬場は豪雪地帯で、雪に閉ざされます。 そんな厳しい自然環境に、 合掌造りの家屋が建っています。 まだ晩秋の時期でしたが、もう雪囲いの準備が 始まっていました。
鶴ヶ城は戊辰の役の会津戦争で、籠城戦となり 一か月の籠城の末、開城しました。 その後城は解体され、今ある城は。昭和40年に 外観復興したものです。
広島県の東部にある竹原は、古くからの 港として知られ、瀬戸内海の要衝として栄えました。 そんな竹原は、江戸後期には塩田の塩の生産が盛んとなり 遠く江戸大坂に回船で運ばれていました。 竹原の街並み保存地区のある本町通りには 白壁格子戸の街並みが続…
商売繫盛や五穀豊穣の神様として 篤い信仰を集める伏見稲荷大社は、 京都伏見の稲荷山にあります。 御祭神の稲荷大神が稲荷山に鎮座したのは、 和銅4年で、今から千三百年前と伝えられます。
長崎の寺町通りに赤い山門が 印象的なお寺があります。 ここは東明山興福寺と言って、 日本最古の黄檗宗のお寺で、 日本最初の唐寺で、長崎三福寺の一つです。
兵庫県の北部にある出石は、江戸時代 仙石家5万石の城下町でした。 お城が町の南側にあり、 大手前通りが北に延びます。 その三の丸大手門脇に辰鼓楼があります。 初めは太鼓楼でしたが、その後時計台に改められました。
今の大分市には、豊後国の 国府がありました。 ここにある府内城は、鎌倉時代から 室町時代に守護を務めた、 大友氏が造った城ではありません。 府内城は、安土桃山時代後期に福原直高が築城をはじめ 竹中重利が完成させた城で、大友氏の館は別の場所にあり…
広島県の東部にある竹原は、古くからの 港町として知られ、瀬戸内海の要衝として発展しました。 江戸の後期からは、塩田の塩の生産が盛んとなり 遠く江戸大坂まで船で運ばれていました。 もう一つ竹原には、酒造業が栄えていました。 左側の建物が竹鶴酒造で…
由良川の源流が流れる南丹市の 美山町は、茅葺屋根の農家が残る里です。 ここは京都府の中でも、福井県の県境に近い 山間の集落で、鯖街道が通っていました。 ここで生活する人々は、ほとんどが 林業に携わっています。
東海道五十三次の47番目の宿場町関宿は、 鈴鹿山脈の山裾にありました。 ここは、古代から交通の要衝で、古代三関の一つ 鈴鹿の関が置かれていました。 宿場には、伝統的町屋が200軒程が現存し、 宿場の面影が残ります。 この宿場の東の追分から、伊勢別街道…
三州街道は三河の国岡崎と 信州塩尻を結んでいました。 三河湾で採れた塩を、矢作川の舟で 足助まで運び、そこで馬の背に乗せ換えて 信州塩尻まで運んでいました。 当時足助宿には、塩の問屋があり、栄えた宿場でした。 三嶋屋旅館は、江戸後期に呉服店でし…
越中富山の五箇山にあるコキリコの里は 民謡と茅葺の合掌造りの民家の里でした。 通り沿いに、大きな合掌造りの 建物がありました。 ここは村上家住宅と言って天正年間に 建てられた4層の建物で、 国の重要文化財なっています。
奈良東大寺の大仏殿は、世界最大の 木造建築として知られていますが、 治承4年(1181年)と(永禄10年) の戦果で焼失し、再興され、国宝になっています。
下野街道は日光今市から会津若松を結ぶ 街道で、会津西街道とも呼ばれていました。 この街道の下郷に過っての宿場町 大内宿が残っていました。 大内宿は、下郷でも山手にあり、半宿半農の宿場で、 今も茅葺屋根の宿が、土産物屋や 蕎麦屋にかわり、営業を続…
戦国時代の寺内町が原型で、五百軒程の 伝統的な町屋が残っています。 戦国時代、他の勢力の介入を拒み、 堀を深くし、武力を蓄えていました。 石山本願寺の大坂退去後は、武力放棄して、 自治都市として繁栄しました。 狭い路地が町を巡っています。