2022-08-01から1ヶ月間の記事一覧
倉敷川の両岸に蔵屋敷が残る倉敷は、 江戸時代幕府の天領でした。 そんな倉敷の町中には、白壁に格子戸の 街並みが続いていました。
瀬戸内海に浮かぶ島の大崎下島に 御手洗はありました。 この地は、神功皇后がここで手を洗った事から 地名になっています。 そんな御手洗は、江戸時代、 北前船の寄港地で賑わいました。 港から続く狭い路地が、街中を巡っていました。
越前平定の恩賞として織田信長から 3万石を与えられた金森長近は 亀山に越前大野城を築きました。 その城下町は、碁盤の目に整備されました。 美濃表に通じる街道につながる七間通りは、 メイン通りで、大店の店が軒を並べていました。 七間通りと五番通り…
北國街道は、追分で中山道から別れ、 小諸、海野、上田と進み、善光寺を経由して、 中津江で北陸道と合流していました。 この街道は、北陸の大名の参勤交代や、役人の交代 善光寺参り、佐渡の金の江戸への輸送に使われました。 明治以降は、鉄道網の発達で、…
兵庫県の北にある豊岡に 城崎温泉はありました。 ここは、平安時代以前から知られる 長い歴史のある温泉で、 海内第一泉とも呼ばれていました。 大谿川沿いに、3階建ての温泉宿が並びます。
三重県松阪の本町通りに、小津清左衛門の邸宅が 松阪商人の館として残っていました。 場所は伊勢街道が阪内川を渡る所です。 小津清左衛門は、江戸大坂に進出した豪商でした。 三井家や長谷川家と並ぶ大商人でした。 松阪に在住して、40軒余りの紙店を束ね…
広島県の東部にある竹原は、平安時代から 瀬戸内海の港町として知られ、 交通の要衝として発展しました。 江戸後期からは、塩田の塩の生産が盛んとなり 江戸大坂に、北前船で運ばれていました。 そんな竹原の町中に、旧笠谷邸がありました。 ここは、塩田経…
豊前街道は、肥後熊本から豊前小倉を 結んでいました。 熊本を出た街道は、菊池川を渡り、 山鹿の町に入りますが、 江戸の昔は、ここに惣門があり、 山鹿の町を守っていました。 そんな惣門付近は、菊池川の川湊で、 ここで集められた米などは、有明海を通し…
大分県の東海岸に臼杵の町はありました。 ここは、大友宗麟が丹生島城(臼杵城) に籠って、島津の猛攻を何とか凌いだ所です。 江戸時代は稲葉家が美濃から入りました。 そんな臼杵の城下に、二王座というところがあります。 ここは、阿蘇山の噴火で出来た凝…
川越の蔵造りの街並みの陶舗やまわから 脇道に入ると、突当りに、お寺がありました。 鎌倉時代後期に創建された、 長喜院というお寺があります。
長良川が南北に流れる流れる美濃市は、 美濃和紙で知られる和紙の町です。 その町中にうだつの上がる街並みがありました。 和紙の問屋や造り酒屋が並ぶ家並みには、屋根の上に うだつが上がっていました。 うだつは、類焼防火装置と言ったらよいのでしょうか…
備中松山城は、高梁川が南北に流れる 高梁市の山の中、標高430メートルの 臥牛山の頂上付近にあります。 山城で不便なため、麓に御殿と 武家屋敷を置いていました。 備中松山藩は6万石の小さな藩ですが、 江戸時代に建てられた天守や櫓が残ります。 今は…
肱川が蛇行して流れる大洲市は、 江戸の昔は、城下町でした。 肱川を見下ろす小高い丘に、城がありました。 かって、大名行列が通った、おおなはん通りには、 白壁のなまこ壁の蔵屋敷が続き、突当りを南に入ると 料理屋や料亭が並び、その先には大洲神社の石…
琵琶湖の東岸に近江八幡はありました。 ここは、豊臣秀吉の甥の秀次が八幡山に城を築き、 主なき城下町となっていた安土から、住民を移住させて 城下を造りました。 琵琶湖と城下を結ぶ、八幡堀は、物流の増加をもたらし 商業の発展に寄与しました。 しかし…
旧東海道の46番目の宿場町の亀山宿は、 6万石の城下町の宿場で、今は三重県亀山市にあります。 ここの宿場町で、江戸末から大正にかけて 呉服店の大店を営んでいた枡屋は、 街道沿いですが、今はこの辺りに他の店がなく、 なんでこんな場所で店を出してい…
四国香川県の琴平町にある金比羅さんは、 海上交通の守り神として 海事関係者の信仰を集めています。 金比羅宮に向かう参道には、ここの名物の讃岐うどんの 店が軒を並べています。
奈良の吉野川北岸にある五條は、 昔からある五條村と城のある 二見を結ぶ地に造られた新町の 二つから成っています。 西に行く紀州街道と東に行く伊勢街道、 北に行く大和街道が出合います。
旧中山道の34番目の宿場町奈良井宿は、 木曽路11宿の中でも一番標高の高い宿場で、 難所の鳥居峠を控える宿場でした。 宿場内には、木曽の木材を使った、漆器や櫛などの木工品や、 信州そばやおかきなどこの地の名産品を売る店が並んでいました。
広島県の東部にある竹原は、 古くからの港町として知られ 瀬戸内海の港町として発展しました。 そんな竹原は、江戸後期からは、 塩田の塩の生産が盛んになり 江戸大坂まで運ばれていました。 狭い路地が町を巡っていました。
京都の渡月橋を北西に遡ると、 愛宕街道の先に、愛宕神社の一の鳥居 があり、2軒の茅葺の茶屋がありました。 ここより、少し下ると、昔は農家と思われる町屋が 建っています。
琵琶湖の北東にある長浜は、 近江平定の恩賞として、織田信長から 秀吉に与えられた地で、初めて琵琶湖に接する 城を建てた地です。 時が流れ、関ヶ原後は内藤氏が城主となりましたが そのあとこの城は廃城となり、そのあとに 大通寺が入り、その後城跡から…
広島県の東部に潮待ちの港として知られる 鞆の浦がありました。 ここは、瀬戸内海の中間地点で、ここの沖から 干満の差で、東西の流れが生まれ、それを利用して 船を動かしていました。 鞆の浦は、古い港なので、港町の路地は狭く、 ここが港では一番広いか…
岐阜県の北部にある白川郷は、庄川の 流域にあり、冬場は豪雪地帯で知られます。 そんな荻町地区には、合掌造りの民家が並んでいました。 昔は、茅葺の合掌造りの二層三層で、蚕を育てる 養蚕をしていました。
上田盆地の北部の千曲川の分流の天ヶ淵の面する 上田城は、徳川家と真田家の 第一次第二次上田合戦の舞台でした。 今ある城は、関ヶ原後、仙谷家が築いた城で、 真田家の城は、関ケ原合戦終了後すぐに破壊されました。
琵琶湖の東岸にある五箇荘金堂は、 近江商人の故郷の一つです。 ここの近江商人の活躍は、江戸後期から 始まり、呉服や綿製品、絹製品の行商から 商圏を日本各地に広げて行きました。 やがて京大阪江戸に店を持つ豪商が現れ、 明治以降は、朝鮮中国大陸に進…
河崎は伊勢湾を舟で渡って来た、伊勢神宮の 参拝客が初めて上陸する、勢田川の河岸でした。 室町時代から江戸にかけて、 日本中から集まる物資を売りさばく 問屋の店舗や土蔵が軒を並べる町でした。 今は当時の土蔵を利用した店舗が営業していました。
京都の堀川通りの西本願寺の南に 隣接する興正寺は、浄土真宗興正寺派の本山です。 過っては、西本願寺の脇門跡でしたが、 今は興正寺派の本山の興正寺です。 西本願寺に南にあるので、 一見西本願寺の伽藍と勘違いされます。 実は私も西本願寺だと思ってい…
長良川が南北に流れる美濃市は、 美濃和紙で知られた和紙の町です。 そんな美濃市の市役所の近くに うだつの上がる街並みがあります。 うだつとは、屋根の上にあげた類焼防火装置です。
江戸時代幕府の天領として、倉敷川の両岸に 米蔵の土蔵が立ち並んだ倉敷は、 岡山県の南部の瀬戸内海に隣接してします。 倉敷川から離れた場所にも、 白壁に土蔵の街並みが続いていました。
旧中山道の43番目の宿場町の馬籠宿は、 山の尾根道にありました。 ここは、木曽路11宿の中でも、一番南に位置する宿場で、 今は長野県から岐阜県にお引越しています。