2024-05-01から1ヶ月間の記事一覧
平城遷都の下京として寺社が置かれた 奈良町は、中世以降元興寺の境内に様々な手工業者が住み着き 商工都市となりました。 奈良は、先の大戦で空襲を受けなかったので 狭い路地に古い町屋が残りました。
兵庫県の中東部にある丹波篠山は、 関ケ原の合戦後に、西国大名と豊臣家の 抑えとして天下普請で城が築かれました。 この地は代々松平家が藩主でした。 そんな篠山には、河原町という商人町がありました。 妻入り屋根の商家には、表に大木戸、千本格子で 二…
美作の国(今の岡山県東北部にあった)の国府は 津山にありました。 江戸時代は城下町で、城の東側には、 出雲街道の走る、城東町という 商家の並ぶ場所がありました・ 造り酒屋の店舗の奥は、ウナギの寝床の様に続いていました。 その路地は、吉井川に出ま…
大分県の由布岳の麓に金鱗湖があります。 この湖には温泉が湧いて、温泉の湖です。 この湖の湖畔に、下ん湯という温泉場があります。 この下ん湯は、混浴で、お湯は熱め、 金鱗湖を存分に眺められます。
明治大正昭和にかけて、九州の筑豊は、 日本のエネルギー供給の中心地で、 石炭の生産が盛んでした。 その石炭王となったのが、伊藤伝右衛門でした。 この長屋門は、福岡の武家屋敷の門を移築したものです。
富山県の南西部にある南砺の山の中に 茅葺の里の相倉集落がありました。 ここは,山々を縫うように庄川が流れ 冬場は豪雪地帯で知られます。 その集落の奥に、地主神社が鎮座します。 杉林に囲まれ、銀杏の木が紅葉しています。 ここは相倉の守護神で、これか…
岡山県の山の中に、江戸末から明治にかけて 国内唯一のベンガラの産地として栄えた吹屋があります。 ベンガラは、赤色の発色剤で、陶器や漆器の赤色や 神社仏閣の建物を赤く塗る塗料として使われました。 今も、石州瓦に格子戸の町並みが続きます 。
長崎三福時の一つに数えられる 崇福寺は、黄檗宗の禅寺です。 ここは、1629年に渡来した 唐僧超然によって創建されました。 竜宮城を思わせる赤い三門を潜り、左に進むと 第一峯門から大雄宝殿に至ります。
江戸時代、肱川の流域に城のある城下町であった 大洲は愛媛県の南予にありました。 この城下町に、当時の街並みが残った場所がありました。 北側にある蔵は商家の物で、南側には武家屋敷が建っていました。 テレビドラマのロケ地となったことから ここは、お…
庄川が山々を縫うように流れる、五箇山の相倉集落は、 合掌造り茅葺き屋根の民家の郷でした。
今は島根県松江市になっている美保関は、 古くからの交通の要衝で、風待ちの港として栄えた所です。 環日本海交易の拠点で、たたら製鉄の鉄の輸出港として 繁栄し、江戸時代は、北前船航路の拠点として発展して、 多くの回船問屋が存在していました。 港の奥…
富山県の南西部にある南砺市に山の中に 五箇山の菅沼集落はありました。 ここは、庄川が山々を縫うように流れる 河岸段丘にあり、冬場は豪雪地帯で知られます。 9戸の合掌造りの民家が現存しています。
今は兵庫県豊岡市にある出石城は、 江戸時代、信州から入った仙石家の城下町でした。 その名残か、ここはそば処で、出石蕎麦が知られています。 登城橋から登城門を通り西櫓に上ります。 城は、城下の南側にあり、天守は造られませんでした。
会津若松の一角に野口英世青春通り という場所があります。 ここは英世が左手の切開手術を受けた 会陽医院があり、渡米まで、書生として 青春時代を過ごした所でした。
江戸の昔、水運の便を使って、紅花の集散地として 栄えた村田町がありました。 ここでは、なまこ壁を多く使った店蔵(たなぐら) と呼ばれる土蔵造りの店舗と壮大な表門が残っています。 村田商人は、消費地の江戸京都、大坂までの輸送に携わる 商取引を行っ…
慶応元年(1,865年)新撰組は、壬生屯所から、 西本願寺の太鼓楼と北会所に移り、新選組本陣の看板を掲げました。 当初の隊員が24人で、最盛期は、200人を超える隊員がありました。
丹波篠山は、関ヶ原合戦後、徳川家康が 西国大名や豊臣家を抑えるために 6か月の天下普請で、城を築いたところで その城下町で、商家が集まった所が 河原町です。 妻入り商家は、敷地が間口が狭く、奥行きが広い ウナギの寝床で、表は大木戸の千本格子で 2…