2024-05-01から1ヶ月間の記事一覧
室町時代から港町として知られ、江戸時代後期には 塩田の塩の生産が盛んになった竹原は、 広島県南部の瀬戸内側にありました。 本町通りのたけはら町並み保存地区には 白壁土蔵の商家が並びます
江戸時代日光例幣使街道の宿場町として、 また江戸との船便の問屋町として北関東の商都と呼ばれていました。 栃木には、巴波川流域や蔵の街大通り、黒塗りの見世蔵や土蔵が 残り、当時の繁栄を偲ばせます。
中山道の34番目の宿場町の奈良井宿は、 中山道のちょうど真ん中にある所で 木曾11宿の中で一番標高の高い宿場です。 難所の鳥居峠を控え、一泊するところで 「奈良井千軒」と謳われ栄えた宿場でした。 信州そばやおやきなどの飲食店や 木曽の木材を使っ…
豊前街道は、肥後熊本と豊前小倉を 結んでいました。 熊本を出た豊前街道は、北上して、 菊池川を渡り山鹿の街に入りますが 江戸時代は、ここに惣門があり 山鹿の街を守っていました。 惣門近くは、菊池川の川湊があり、ここから 有明海を経由して、大坂まで…
旧東海道の47番目の宿場町の関宿は、 三重県の鈴鹿山脈の山裾にありました。 ここは、古代より交通の要衝で、 古代三関の一津、鈴鹿の関がありました。 この宿場の追分から東は、伊勢別街道が 西の追分からは大和街道が分岐します。 東の追分から西の追分…
福島県の会津地方の東部にある会津若松は 松平家の城下町で、七日町通りには、日光、越後、 米沢街道が通る、城下の西の玄関口で、問屋や旅籠、料理屋が 軒を連ねていました。 そんな七日町通りから中に入ると、大きな酒蔵がありました。 会津若松は酒処で、…
今は、愛宕神社の一の鳥居がある 鳥前町の鳥居本ですが、ここは、大昔は 京都の三大風葬地で、死体累々の 人の世の儚さを知る場所でした。 一の鳥居の前後には、茅葺の茶屋が2軒建ち、 愛宕街道がその前を通ります。
旧東海道の46番目の宿場町の亀山宿は 伊勢国鈴鹿山脈の山裾にある宿場で、 亀山藩5万石の大名の城下町でもありました。 町外れに亀山ろうそくの工場がありました。
会津若松の七日町に続く大町通りに 野口英世が左手の手術を受け、渡米まで間の 青春時代を書生として過ごした会陽医院の隣に 福西本店という蔵造りの商家があります。 福西家は300年ほど前に、奈良から移り住んで、 代々伊兵衛を世襲して、綿の商いをしま…
高梁川が南北に流れる、備中高梁に 足利尊氏が諸国に命じて建立した安国寺の一つの 天柱山頼久寺があります。 ここの寺には、小堀遠州が作庭した 「鶴亀の庭」と呼ばれる蓬莱式枯山水庭園で 天下の名園として知られます。
平城遷都の下京として寺社が置かれた 奈良町は、中世以降元興寺の境内に様々な手工業者が住み着き 商工都市となりました。 奈良は、先の大戦で空襲を受けなかったので 狭い路地に古い町屋が残りました。
兵庫県の中東部にある丹波篠山は、 関ケ原の合戦後に、西国大名と豊臣家の 抑えとして天下普請で城が築かれました。 この地は代々松平家が藩主でした。 そんな篠山には、河原町という商人町がありました。 妻入り屋根の商家には、表に大木戸、千本格子で 二…
美作の国(今の岡山県東北部にあった)の国府は 津山にありました。 江戸時代は城下町で、城の東側には、 出雲街道の走る、城東町という 商家の並ぶ場所がありました・ 造り酒屋の店舗の奥は、ウナギの寝床の様に続いていました。 その路地は、吉井川に出ま…
大分県の由布岳の麓に金鱗湖があります。 この湖には温泉が湧いて、温泉の湖です。 この湖の湖畔に、下ん湯という温泉場があります。 この下ん湯は、混浴で、お湯は熱め、 金鱗湖を存分に眺められます。
明治大正昭和にかけて、九州の筑豊は、 日本のエネルギー供給の中心地で、 石炭の生産が盛んでした。 その石炭王となったのが、伊藤伝右衛門でした。 この長屋門は、福岡の武家屋敷の門を移築したものです。
富山県の南西部にある南砺の山の中に 茅葺の里の相倉集落がありました。 ここは,山々を縫うように庄川が流れ 冬場は豪雪地帯で知られます。 その集落の奥に、地主神社が鎮座します。 杉林に囲まれ、銀杏の木が紅葉しています。 ここは相倉の守護神で、これか…
岡山県の山の中に、江戸末から明治にかけて 国内唯一のベンガラの産地として栄えた吹屋があります。 ベンガラは、赤色の発色剤で、陶器や漆器の赤色や 神社仏閣の建物を赤く塗る塗料として使われました。 今も、石州瓦に格子戸の町並みが続きます 。
長崎三福時の一つに数えられる 崇福寺は、黄檗宗の禅寺です。 ここは、1629年に渡来した 唐僧超然によって創建されました。 竜宮城を思わせる赤い三門を潜り、左に進むと 第一峯門から大雄宝殿に至ります。
江戸時代、肱川の流域に城のある城下町であった 大洲は愛媛県の南予にありました。 この城下町に、当時の街並みが残った場所がありました。 北側にある蔵は商家の物で、南側には武家屋敷が建っていました。 テレビドラマのロケ地となったことから ここは、お…
庄川が山々を縫うように流れる、五箇山の相倉集落は、 合掌造り茅葺き屋根の民家の郷でした。
今は島根県松江市になっている美保関は、 古くからの交通の要衝で、風待ちの港として栄えた所です。 環日本海交易の拠点で、たたら製鉄の鉄の輸出港として 繁栄し、江戸時代は、北前船航路の拠点として発展して、 多くの回船問屋が存在していました。 港の奥…
富山県の南西部にある南砺市に山の中に 五箇山の菅沼集落はありました。 ここは、庄川が山々を縫うように流れる 河岸段丘にあり、冬場は豪雪地帯で知られます。 9戸の合掌造りの民家が現存しています。
今は兵庫県豊岡市にある出石城は、 江戸時代、信州から入った仙石家の城下町でした。 その名残か、ここはそば処で、出石蕎麦が知られています。 登城橋から登城門を通り西櫓に上ります。 城は、城下の南側にあり、天守は造られませんでした。
会津若松の一角に野口英世青春通り という場所があります。 ここは英世が左手の切開手術を受けた 会陽医院があり、渡米まで、書生として 青春時代を過ごした所でした。
江戸の昔、水運の便を使って、紅花の集散地として 栄えた村田町がありました。 ここでは、なまこ壁を多く使った店蔵(たなぐら) と呼ばれる土蔵造りの店舗と壮大な表門が残っています。 村田商人は、消費地の江戸京都、大坂までの輸送に携わる 商取引を行っ…
慶応元年(1,865年)新撰組は、壬生屯所から、 西本願寺の太鼓楼と北会所に移り、新選組本陣の看板を掲げました。 当初の隊員が24人で、最盛期は、200人を超える隊員がありました。
丹波篠山は、関ヶ原合戦後、徳川家康が 西国大名や豊臣家を抑えるために 6か月の天下普請で、城を築いたところで その城下町で、商家が集まった所が 河原町です。 妻入り商家は、敷地が間口が狭く、奥行きが広い ウナギの寝床で、表は大木戸の千本格子で 2…