2020-08-01から1ヶ月間の記事一覧
平城京に遷都されたとき、下京として寺院が 多く置かれたことに始まる奈良町は、中世以降 元興寺の旧境内に、様々な業種の手工業者が集まり 商工都市として発展しました。
長崎の大浦海岸通りにある、旧英国領事館は 1907年(明治40年)竣工の 煉瓦造りの二階建ての建物です。 戦後、英国は領事館を廃止しました。
広島県の東部の瀬戸内の港町竹原は、古い港町でした。 江戸後期から塩田の塩を作り、それを遠く江戸大坂まで 北前船で運んでいました。
焼き物の町、佐賀県有田町の大通りから中に入った、 古い焼き物工場の近くに、焼き物を焼く窯の煉瓦を再利用した トンバイ塀がありました。
瀬戸川沿いに白壁土蔵の商家が、 軒を並べる飛騨古川の町並み。
川越の蔵造の町並みに、ひときわ目につく 三件の建物がありました。 右からフカゼン美術表具屋、 真ん中がマチカンで刃物屋、 左がやまわで陶器屋です。
引田は香川県東かがわ市に属する 江戸時代、醤油の醸造で栄えた町です。 今も醤油の醸造を続けるかめびし屋
岐阜県の北部庄川の流域にある白川郷は、 茅葺きの合掌造りの民家で、名が知れています。 冬場豪雪地帯で知られるこの一帯では、 雪下ろしの手間を減らす為に 急こう配のかやぶきの屋根になっています。
徳島県の西部の吉野川北岸に、 かって藍の集散地として栄えた 脇町がありました。 ここは、江戸時代、脇城の城下町で、 撫養街道と讃岐街道が交わる交通の要衝でした。 様々な業種の商人が、白壁うだつの上がる家屋を競うように 建てました。
今は岐阜県の中津川市にある 中山道の宿場町馬籠宿は 山の尾根道にあるため、 宿場を通る街道も、 坂道になっています。
大分県の東海岸にある臼杵は、臼杵摩崖仏や 醤油や酒の醸造の町として知られています。 白壁のなまこの壁の土蔵や店舗は、小手川酒造で 作家の野上弥生子の生家です。
大分県臼杵市は、江戸時代稲葉氏の城下町でした。 商店街から南に入り込んだ、武家屋敷やお寺が 細く折れ曲がった石畳の路地の先に、顔を出します。
岐阜の飛騨地方に、古い城下町の町並みを 残す高山がありました。 東側に飛騨山脈、西に白山山地がそびえ、 これらの険しい山々に囲まれた盆地にあります。
瀬戸内海に浮かぶ大崎下島の御手洗は、 西回り航路の廻船が、潮待ち、風待ちの港として 栄えました。 その町なかに待合茶屋としてひときわ立派な建物が 若胡子屋です。
京都の三条通から四条通の南の建仁寺までの 南北約一キロの通りで、四条通から北がスナックなどの 飲食街、南がお茶屋街です。 花見小路から、東西に入り込む路地があり、 お店が続いていました。
長野県塩尻市にある奈良井宿は、 旧中山道の宿場町でした。 奈良井千軒と呼ばれ大きな宿場でした。 この宿場華やかりし頃は、本陣脇本陣一軒づつ、旅籠5軒ありました。
岐阜県北部の庄川の流域にある白川郷は、 合掌造りに民家が残されていました。 冬場は豪雪地帯で、雪に閉ざされる、白川郷では 雪下ろしの手間を減らすために、急こう配の屋根の合掌造り屋根が 出来ました。
愛媛県南予にある大洲町は、 肱川の流域にあり、大洲城の城下町でした。
岐阜県の北部にある高山市は、 江戸の初めは金森長近の城下町で その後幕府の陣屋が置かれました。 そんな高山の片隅に、 古い町並みが残っていました。
琵琶湖の北東にある長浜市は、太閤秀吉の故地です。 琵琶湖に接する位置に長浜城がありました。 そのお城から城下に延びた通りが大手門通りで、 その大手門通りと北国街道が交差する場所が、 長浜で一番賑わった場所で札の辻と呼ばれ 高札が立つ場所でした。…
中世の寺内町で、新興勢力に対し、 堀を深くし武力を蓄え、干渉を拒んだ、 今井町は、橿原市にありました。 「大和の金は、今井に七分」と言われるほど 繁栄しました。
中山道の宿場町馬籠宿は山の尾根道にあるため、 街道も勾配のある坂道となっています。 その先は、ずっと登坂で、馬籠峠に至ります。
倉敷川の両岸には、柳が植えられていて、 そよ風に靡いていました。 岸の道路は広く、白壁に海鼠壁の建物が 軒を並べていました。
現在の高島城は諏訪湖からかなり離れていますが、 移転した訳ではありません。 出来た当初は「諏訪の浮き城」とい言われて、 諏訪湖に接していました。 諏訪湖が干拓されて、 水面が高島城から離れていきました。
眼鏡橋は、長崎市の中島川に架る 石造りのアーチ2連橋です。 寛永11年(1634年)に興福寺の黙子如定禅師が 中国から職人を呼んで造らせました。
北国街道は、追分で中山道から別れ、 小諸、海野、上田と進み、善光寺を通り、 直江津で北陸道に合流します。 この宿場を、北陸の大名の参勤交代、善光寺参り、 佐渡の金の輸送で使われました。
戦国時代西園寺氏の城下町で、 その後城が廃城になり、 在郷町として残った宇和町の卯之町は 暖かい南予にありました。 日本初の女医となった楠本イネの保護者二宮敬作 の住居がありました。 二宮敬作はシーボルトの弟子でした。
長良川と支流の吉田川の合流点に市街があり、 水のきれいな町として知られます。 建物の間に、小川が流れ、風の通り道になっていました。 周りより5度cぐらい気温が低い感じでした。
瀬戸内海の島大崎下島の御手洗は、 北前船の寄港地でした。 その町中の路地は細く折れ曲がりながら 続いていました。 今は町並み保存センターになっている柴屋住宅は、 高橋家の別宅で、伊能忠敬が測量の際、宿舎となりました。
千葉県の利根川に接する北房総に、 水郷の佐原がありました。 小野川の流域に古い商家の町並みを残します。