2024-04-01から1ヶ月間の記事一覧
有松の町は旧東海道に面して、有松絞の 商家が立ち並びます。 東海道が、整備された頃は、鬱蒼した 松林が点在した丘陵でした。 尾張藩の振興策で、移住が推奨され、 徐々に人口が増えましたが、まだ桶狭間村の一部でした。 絞り染めの技術が流入して定着す…
岡山県の北部にある津山市に、ルネサンス調の 石造りの建物がありました。 ここは作州民芸館といって、明治42年に建てられた 土居銀行で、その後中国銀行になり、今は ここの民芸品や郷土玩具が展示されています。
銀山の名の元は、野辺沢銀山で この銀山が衰退して、温泉宿が建てられ 温泉湯治が盛んとなりました。 しかし、大正2年の洪水によって 温泉街は壊滅しました。 今ある温泉旅館はその後に建てられたものです。
上野東照宮は、徳川家康を祀る神社で、 藤堂高虎が自分の敷地内で、創建して その孫の家光が1651年に改築したものです。 その後の、彰義隊の上野戦争や太平洋戦争の東京大空襲にも 燃えずに、建っています。
津和野は、島根県の西の端の山間にある盆地で 江戸時代は、小さな藩の城下町でした。 石州瓦の赤い屋根が並ぶ本町通りには 、大店の商家が店舗を並べていました。
慶長2年(1597年)豊臣政権の 五大老の一人の宇喜多秀家が築いた 三層六階の天守は不当辺五角形をなしています。 ここの城を建てた宇喜多秀家は、関ケ原の合戦後 改易になり、八丈島に流罪になり、 二度と岡山に戻ることはありませんでした。
JR近江八幡駅の北2キロにある新町通りは、 江戸末から明治大正にかけて建てられた 大店の八幡商人の本宅が立ち並ぶ所でした。 近江八幡商人は、本拠をここに置き、商才を頼りに 他国に進出して、江戸日本橋に店を構えました。
大分市にある府内城は、大友宗麟が 造った城ではありません。 府内城は、安土桃山時代後期に、福原直高が築城をはじめ 竹中重利が完成させた城で、四重の天守があったとされます。 天守は江戸時代に焼失し、大手門は昭和20年の 空襲で焼失して、その後に、外…
潮待ちの港で知られる鞆の浦は、広島県東部の 瀬戸内海沿いにありました。 鞆の浦の港から続く路地には、 保命酒の造り酒屋の中村家がありました。 ここは、京の政変で都落ちした七卿が、 しばらく滞在しました。 その中村家を受け継いだのが太田家です
瀬戸川沿いに、白壁土蔵の街並みが続く飛騨古川は 古い城下町で、造り酒屋や和蝋燭屋などの お店が並んでいました. 瀬戸川には、色とりどりの鯉が泳いでいました。 この瀬戸川は、冬場は雪の捨て場の流雪溝になるため 鯉は城跡の池にその間、お引越します。
石見の国の石見銀山は、最盛期日本最大の銀山で世界の 銀産出量の三分の一を占めていました。 そんな石見銀山は石見の国 今の島根県にありました。 当時の鉱山の労働は過酷で、酸欠に粉塵などで 三十歳まで生き延びた鉱夫は、長寿のお祝いをしたそうです。
長崎の寺町の片側が石垣の路地を歩いて行くと 赤い山門が印象的な興福禅寺がありました。 ここは長崎三福寺の一つに数えられる この寺は東明山興福禅寺という 黄檗宗の唐寺で、隠元和尚ゆかりの寺です。 寛永元年に創設されたお寺です。 黄檗宗の最古のお寺…
広島太田川の三角州に、広島城はあります。 この城は、安土桃山時代に毛利輝元に よって築かれた城で、関ケ原後の 毛利家の減封により、福島氏から 浅野氏に城主が変わりました。 築かれた当時は、大坂城に次ぐ規模の城でした。 この城は戦前の国宝になった…
京都の堀川通に面する西本願寺は、 浄土真宗本願寺派の大本山です。 南の北小路から入ると唐門がありその先に 大玄関門がありました。 この大玄関門は、大法要の時しか開けない門で、 この門の先は、龍谷大学のキャンパスになっていました。
大阪から南に下ると、紀ノ川を越えると 紀伊の国和歌山に入ります。 ここは徳川御三家の一つ紀州徳川家の城下町で 虎伏山の頂上に築かれた和歌山城(虎伏城)を根拠に 五十五万五千石の領地がありました。 天守曲輪と楠門 戦前の国宝になりましたが、昭和2…
中山道を追分で別れ、小諸、海野、上田と進み 善光寺を経由して、直江津で北陸道と合流していた 北國街道は、参勤交代の大名や役人または、善光善光寺参り 佐渡の金の江戸までの輸送に使われていました。 街道の脇に水路があり、その脇に柳が植えられていま…
下野街道(会津西街道)の宿場町の大内宿は、 下郷町の山の中にある宿場で、半宿半農の宿場でした。 街道の両脇に茅葺屋根の旅籠が並びます。 今は宿をやっている所は僅かで、飲食店か土産物屋をしていました。
高梁川が南北に流れる、高梁の本町通りには 大きな商家が建っていました。 ここは池上邸と言って、享保年間に小間物屋から始め 両替商や高瀬舟の船主から醤油の醸造で財を成した 豪商でした。 醤油の醸造道具が展示されていました。
戊辰戦争の激戦地となった会津若松の鶴ヶ城は、 元は蘆名氏の黒川城で、その城を伊達政宗が攻め滅ぼし 居城を米沢城から移しました。しかし、政宗が豊臣秀吉に臣従し たことで、この城は召し上げられ、米沢に戻りました。 そのあとは、蒲生氏郷が入り、城下…
宮城県の仙南地方にある、村田町は、 江戸時代、水運を生かして 仙南地方で紅花の集散地として栄えました。 その村田町には、なまこ壁を多く使った店舗と 壮大な表門がセットになった店蔵が続きます。 右側はカネ正といって創業 天保12年の かねしょう時の…
高知市浦戸にある桂浜は、太平洋を臨む 海岸で、長宗我部時代のお城のあった場所で 坂本龍馬像が海に向かい建っています。 今は水族館や竜馬記念館が建っています
小城鍋島家の菩提寺の星巌寺があります。 その楼門は柵がしてあり、入れませんでした. この奥に五百羅漢の像があり、 200体ほど数えることが出来ました。 その奥が小城鍋島家の墓所になっていました。
旧長崎街道の脇街道は、有明海の西側を通り 長崎を結んでいました。 その宿場町の、肥前浜宿が、有明海の西奥 にありました。 江戸時代ここでは、酒や醤油の醸造が行われ 栄えた所でした。
鎌倉幕府の二代将軍源頼家が創建した建仁寺は 建仁2年(1202年)臨済宗開祖栄西の開山です。 その三門は、大正時代に静岡のお寺から移されたもので 望闕楼を書かれた額があります。 望闕楼とは御所を望む楼閣と云う意味です。 この楼上には、釈迦如来、…
今は兵庫県になっている丹波の篠山城は、 徳川家康が関ヶ原後に、西国大名と豊臣家 お押さえとして築城した城で、天下普請で 六か月の工期で造られました。 そんな城下町に、古い商人町の河原町がありました。 ここの商家は、間口はそう広くなく、奥行きが深…
戦国時代の寺内町が原型の橿原市の今井町は、 堀を巡らし門を上げ、兵力を蓄え、他からの介入を拒みました。 そんな今井町は、本願寺の大坂退去で、武装解除して その後は自治都市として発展しました。 「大和の金は今井に七分」と謳われれ程に、栄えました
吉野川が東西に流れる五條は、 江戸時代の初め、二見に城のある 城下町で、五條村と二見の間に新町が企画され 出来たのが五條新町でした。 この先は城のあった二見に向かいます。 この道の先は、紀州に行きつきます。
新勝寺の表参道に大野屋旅館が建っていました。 初めは江戸中期に蝋燭屋として創業し、その後旅籠となり 三階建ての楼閣のある旅館として知られていました。 最近はうなぎ屋や漬物となっていました。 令和3年に取り壊されて、今はもうありません。
由良川の源流が山々を縫って流れる 美山は、かやぶきの里と呼ばれる 茅葺屋根の農家の里でした。 鯖街道が集落を通る美山は、 ほとんどの人が林業に携わっています。
千葉県の北部の利根川沿いに水郷で 知られる佐原がありました。 ここは、江戸時代東北の物資が利根川経由で入る場合 小野川沿いの商人が仲立ちをしました。 そんな訳で、小野川沿いには古い商家の街並みが残ります。 ここは正上醤油という古い商家で、 小野…