2024-01-01から1ヶ月間の記事一覧
平城遷都の下京として、寺社が置かれた奈良町は 中世以降、元興寺の境内に様々な手工業者が住み着き 商工都市となっていきました。 そんな奈良町は、先の大戦で、空襲の被害を受けなかったので 狭い路地に古い町屋が残りました。
有松絞の開祖竹田庄九郎の後裔で、三百年の伝統がある 竹田家は、有松の代表的な家系です。 主屋は、木造切妻造二階建、桟瓦葺、平入りです。 それに隣接する形で蔵が建っていました。
旧中山道の42番目の宿場町の妻籠は 蘭川東岸の木曽郡南木曽町にありました。 この宿場は飯田街道の追分のある賑わった 宿場でした。 松代屋は、今も続く旅籠で、営業中でした。
岐阜県の北部にある高山は、日本で一番面積の 広い市で、大阪府や香川県の面積をしのぎます。 ただし、その大半を森林が占めます。 江戸の昔は城下町で、古い商家の街並みが残ります。 この蔵造りの2階建ての建物は、藍花珈琲店でした。
山口県の柳井市の古市金屋地区には、 白壁に格子戸の古い商家の街並みが残ります。 そんな街並みに、古い醤油蔵がありました。 ここは二百年の伝統のある甘露醤油を造っている 所です。 江戸の昔、殿さまに醤油を献上した所 「甘露甘露」と称賛されたことから…
兵庫県の中東部にある丹波篠山は、 関ヶ原合戦後に、西国大名や大坂の豊臣家を けん制するために、徳川家康が、天下普請で 6か月で造った城ですが、馬出のある堀や石垣の 残る本格的な城でした。 その城下町で、商家の街並みが残る河原町が 残っています。 …
江戸時代幕府の天領で、年貢米の集散地として、 倉敷川の両岸に蔵屋敷が建ちなんでいた倉敷は、 備中に属していました。 倉敷川の両岸には柳が植えられ、なまこ壁の商家が 立ち並びます。
平安京遷都の国家護持の官寺として置かれた東寺は、 嵯峨天皇によって空海に下賜されて、真言宗の根本道場となりました。 東寺の五重塔は、高さ54メートルで 木造の五重塔では日本一の高さを誇ります。 この塔は、5度目の再建となります。 また南大門は、明…
旧中山道の45番目の宿場町の中津川宿は、 木曾の入り口にある宿場で美濃国恵那郡中津川村にありました。 ここを知行地としていた尾張藩重臣の山村甚兵衛は 代官所を置いていました。 この街道の前後に升形があり、通りは直角に曲がります。
富山県の南西部の南砺市五箇山にある 相倉集落は、庄川に沿った合掌造りの民家が残る郷でした。 ここは、冬場は豪雪地帯で、雪に閉ざされます。 今でも20棟ほどの合掌造りの民家が残ります。
引田は、香川県の東部のもう少し行くと徳島県という 播磨灘に面する漁港でした。 漁港と言ったら怒られるかもしれませんが 世界で初めてハマチの養殖に成功した地でもあります。 そんな引田は、安土桃山時代は城下町で、醤油の醸造が始まり 江戸後期には、豪…
福島県会津若松市にある城は、鶴ヶ城と呼ばれ 幕末の戊辰戦争の激戦地となりました。 その為傷みが激しく、しばらく放置の後 解体され、昭和40年に鉄筋コンクリート造で外観復元されました。
山陰の島根県の最西部の山の中に、 盆地の津和野がありました。 ここは江戸時代城下町で、高級武士が暮らす殿街に続く 本町には、大店の商家が並んでいました。 通りを圧する大きな建物は商家であることは分かりますが 今は看板も無く、何を商っていたのかも…
大浦天主堂は長崎市にあるカトリックの天主堂で 1864年に創設された日本で一番古い天主堂です。 正式には日本二十六殉教者聖堂といって 西坂で処刑された二十六人の殉教者に捧げられた 教会堂です。 処刑された西坂に向いて建っています。
倉敷の鶴片山に、宗像三女伸を祀る 海上交通の守り神、阿智神社が鎮座します。 その南に下る参道を降りると、倉敷の美観地区に 出ました。その降り口に蔵がありました。 造り酒屋さんの蔵を使った 焼き鳥屋さんが営業してました。
北國街道は、中山道を追分で別れ、 小諸、海野、上田と進み、善光寺を経由して 中津江で北陸道に合流していました。 宿場はその後。鉄道網の発達で、廃れていきました。 海野宿では、蚕の養蚕に力を入れて、状況を改善しようとしました。
昔の美作の国の国府は、岡山県の東北部 にある津山にありました。 ここは江戸時代は城下町で、出雲街道が通っていました。 その城西の地に、明治42年土居銀行の津山支店として建てられた 洋風の建物が残っていました。 作州民芸館と言って、ここの民芸品や…
岐阜県の北部にある高山は、白山山地と飛騨山脈に 囲まれた盆地にあり、冬場はかなりの降雪があります。 そんな高山は、江戸時代城下町で、古い商家の街並みが残ります。 この通りには、造り酒屋、お味噌屋、料理屋、お香屋などが並び 高山祭の恵比須臺の収…
岡山市の旭川の流域に建つ岡山城は、 宇喜多秀家が1597年に築城しました。 秀家は関ケ原の合戦で西軍として戦い、敗れて、 領地没収で八丈島に流されました。
時の鐘は、寛永4年から、時の川越藩主の 酒井忠勝が建てたのが最初で、その後何回か建て替えられて 川越大火の後、再建されたのが、今の建物です。 日に4回蔵造りの街並みに時を知らせます。
今はJR福山駅から、天守が望むことが出来る 福山城は、一国一城令の発布後に出来た城で 元和8年(1622年)の竣工しました。 五重の天守と七基の三重櫓がありました。 昭和20年の福山大空襲で、伏見櫓と筋金御門以外は 焼失し、今ある城は鉄筋コンクリート製…
千葉県の北部の利根川と接する香取市に、 水郷で知られる佐原がありました。 県道55号線と川岸通りとが、ぶつかる地点に橋があり、 この橋が忠敬橋で、たぶん地元の偉人の 伊能忠敬から名付けられたと思います。 古い商店の間に、石造りのビルが建ち、その…
愛媛県の中央部の南予地方に 内子町があります。 ここは古くから大洲街道の交通の要衝で、 四国お遍路の通過地として栄えました。 また江戸時代から明治時代にかけ、木蝋の生産が盛んで、 全国生産の30パーセントを占めていました。 木蝋生産で財を成した…
上野恩賜公園の中に、徳川家康を祀る 東照宮があります。 ここは寛永4年に藤堂高虎の上野の敷地内に 創建したものを家光が改築したものです。 ここは、彰義隊の上野戦争や関東大震災、東京大空襲 にも焼失を免れています。
島根県の西の端の山の中の盆地に、 江戸時代城下町の津和野がありました。 ここは4万石位の小さな大名で、 城下の西側の山の中にお城がありました。 殿街は、家老や重臣の邸宅が並ぶ通りで、 長屋門の前には、掘割があり、 色とりどりの鯉が泳いでいました。
旧東海道の47番目の宿場町の関宿は、三重県の北西に ある鈴鹿山脈の山裾にあります。 古代からの交通の要衝で、伊勢鈴鹿の関がありました。 東の追分からは伊勢別街道が、西の追分からは 大和街道が分岐します。 この宿場には、伝統的町屋が二百軒ほど残っ…
岡山県の高梁川を遡る高梁は江戸時代、城下町で 430メートルの臥牛山の頂上に山城がありました。 山の上では不便でしたから、城下のある山麓に 御殿や武家屋敷を構えていました。 石高は6万石位でした。 今はこの山城の城主は、猫城主の「さんじゅーろー…
三河平野の乙川と矢作川に挟まれた岡崎城は 戦国時代松平氏の持ち城で、徳川家康の生まれた城です。 当時の城は、天守も石垣もない掻揚げの城だったと言われています。 本丸に天守が造られたのは、徳川幕府成立後の 本多家の時代の元和3年(1617年)で…
岡山県の高梁川を遡り城下町の高梁を通り過ぎ、 西の山の中に入り込むと、突然古い町並みが姿を現します。 ここは吹屋と言って、江戸の中期頃から 吹矢銅山の鉱山町として発展し、幕末から明治にかけ 硫化鉄鉱石させたベンガラの国内唯一の産地として 繁栄し…
山陰唯一の天守の残る松江城は、 松江市の殿町にあります。 標高29メートルの亀田山に建つ天守からは 宍道湖を眺望できます。 慶長16年(1611年)堀尾忠氏によって建てられました。