広瀬淡窓~咸宜園

 別ブログの「夢の旅スケッチ」で、取り上げたことがあるのですが、
今は大分県日田市にあった、広瀬淡窓の咸宜園です。
なぜ今回取り上げる事にしたのかと言えば、
岐阜県高山市で博物館の学芸員さんと話す機会があり、
「九州にも飛騨ならぬ日田があり、天領で、桃源郷の様な郷ですよ」と話すと、
学芸員さんは、よくご存じで、広瀬淡窓の咸宜園の話が出て、
ここ高山にも広瀬淡窓のお弟子さんがいらしゃいましたよとの事でした。

私もブログでは、日本全国から塾生を集めましたと簡単に書きましたが、
当時の日本の中心の江戸ではなく、九州の片田舎の日田に、
全国から塾生を集めたのは凄い事だと改めて思いました。

今でこそ高速道路で半日で行けるとは言え、
当時は、自分の足だけを頼りに、途中で行き倒れの危険を冒しての旅だったでしょう。

イメージ 1

漢学者で教育者でもある、広瀬淡窓は文化2年(1805年)日田に咸宜園を開きました。
ここは全寮制の私塾で、束脩(入学料)を収め、名簿に記載すると、身分、出身、年齢に捉われず平等に学ぶことができました。
科目は、四書五経を始め、数学、天文学、医学にも及びました。
師匠は代わりましたが咸宜園は明治30年まで続き、80年間、入門者は4800名に及び、江戸期、日本最大の私塾となりました。