豊後佐伯城

 天正10年信長公が本能寺で、最期を遂げた時、
備中高松城では水攻めの真最中で、
織田軍と毛利軍が対峙していました。

主君の死の報を知った秀吉は、死を隠し、
講和を急ぎ、全軍を京都に返し、
光秀を討ちました。

これが中国大返しですが、備中高松城
受け取り、残された家来もいたのです。

それが、豊後佐伯城主になった、毛利高政です。
毛利と言っても、秀吉の家来で、もともとは森姓でした。

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佐伯城