2022-01-01から1年間の記事一覧
兵庫県の西の端の播磨灘に 坂越はありました。 ここは、北前船の西回り航路の 主要な寄港地で、最盛期には 豪商が回船業を営み、坂越浦には 大型廻船31隻、小型廻船15隻が犇めいていました。 当時回船業を営んでいた豪商の奥藤の 造り酒屋の酒蔵が続きま…
三重県の鈴鹿山脈の山すそに、旧東海道の47番の 宿場町の関宿はありました。 ここは、古くからの交通の要衝で、古代三関の一つ 伊勢鈴鹿の関が置かれていました。 街並みが残っており、伝統的町屋が 二百軒以上残っていました。
大同元年(806年)阿蘇神社の分霊を 球磨郡青井郷に祀ったことに始まる青井阿蘇神社は 熊本県人吉市にあります。
京都の東大路通りを八坂神社の方に進むと、 八坂通りの狭い交差点から、五重塔が姿を見せます。 ここは、八坂の塔で知られる法観寺の五重の塔で 聖徳太子の創建と言われています。
岐阜県の北部にある高山は、白山山地と 飛騨山脈の高い山々に囲まれた盆地あり 冬場はかなりの降雪があります。 そんな高山は城下町で、古い 商家の街並みが続きます。 ここら辺は飲食店が軒を並べているようです。
東大寺は8世紀前半に創建されてから、 2度の戦火を受けています。 治承4年(1181年)平重衡の南都焼き討ちで 壊滅的な打撃を受け、大仏殿をはじめ多くの堂塔を失いました。 その後、後白河法皇は僧重源を復興に当たらせ、 源頼朝も援助に加わり、建久…
縄文時代、この辺は東京湾の入り江で、 海岸線の後退で、池の形となりました。 江戸時代の初め、東叡山寛永寺が置かれ、 天海は、不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島になぞらえ 弁天島を造り、弁天堂をこしらえました。 幕末寛永寺には、彰義隊がこもり、 戊辰…
長崎の中島川にかかるこの橋は、江戸時代の初め 度々流出する橋を見かねた興福寺住職の黙子如定は 中国から石工を呼び寄せ、石造りの2連のアーチ橋 を造らせたのが、始まりです。
東京の台東区にある都内最古の寺の金龍山浅草寺は 浅草観音として知られるお寺です。 伝承によると、飛鳥時代の636年に 隅田川で漁をしている網に、 引っかかった仏像が、本尊の聖観音像です。 この観音像は一寸八分の高さの金色像で、秘仏なので 公開は…
富山県の南西部にある南砺市の五箇山の 庄川流域に、相倉集落はありました。 ここは、冬場は豪雪地帯で、厳しい環境の中 合掌造りの民家が立ち並んでいました。 山々には、日本海から大量の水蒸気が押し寄せ、 雲が湧いていました。
大分県の東の海岸に 臼杵の町はありました。 大友宗麟が、その当時は島であった臼杵城に籠り 島津軍の攻撃を何とか凌いだ場所です。 そんな臼杵は、江戸時代、美濃から移ってきた 稲葉家が入りました。 その城下町に、阿蘇の噴火で出来た凝灰岩の丘に、 寺社…
愛媛県の南部にある大洲は、肘川の流域に 小高い丘に城のある城下町で、大名行列が通ったという 通りも残っていました。 大洲神社に通じる、狭い通りには、 料亭が建っていました。
小塚家は寛文年間に有松に移住し、 明治まで山形屋の屋号で、 絞り染め問屋を営んでいました。 建てられたのは文久2年(1862年)頃です。
三重県亀山市にある亀山宿は、 東海道の46番目の宿場町で 東海道を上り下りする旅人で賑わった所です。 街は、西町東町からなり、 本陣と脇本陣があり、 旅籠21軒がありました。 今は街道筋に宿場町の 面影はありませんが、 古い町屋が点在します。
木曽の山の中にある妻籠宿は、旧中山道の 42番目の宿場で今は木曽郡南木曽町にあります。 飯田街道の追分がありました。 本陣1軒脇本陣1軒と31軒の旅籠がありました。
倉敷川の両岸に蔵屋敷が立ち並ぶ、 倉敷の美観地区から中に入った場所にも、 白壁格子戸の町屋が立ち並んでいました。
播磨灘に面する坂越は、天然の良港で、 瀬戸内海航路の回船業の拠点として発展し 奥藤、大西、渋谷、岩崎などの豪商が回船業を営み 坂越湾には大小合わせて五十隻近くの船が繋がれていました。 坂越湾に向かう坂越大路には、奥藤酒造の白壁の土蔵が続きます。
岐阜県の北部にある高山は、高い山々に 囲まれた盆地にあり、冬場はかなりの降雪があります。 そんな高山は、江戸時代城下町で、 古い商家の街並みを残します。 街並を歩いてみて気づく事は、造り酒屋さんが多い事です。
琵琶湖の北東にある長浜の北國街道上に 安藤家はありました。 安藤家は、長浜十人衆の筆頭で、 江戸時代を通して三年寄りを務めた商家です。 江戸以降は東北に進出して、中合の創業家です。
徳島県の西部の吉野川北岸に、阿波九城の 脇城の城下町であった脇町がありました。 ここは、吉野川の水運と撫養街道と 讃岐街道が交差する交通の要衝で 阿波藍の集散地として知られていました。 繭に沸き、藍に栄えたこの町では 各種の商人が、白壁うだつの…
愛宕神社の一の鳥居がある鳥居本は、過って 京都の三大風葬知られていました。 そんな鳥居本は、愛宕街道沿いに、 お土産屋さんの建ち並ぶ観光地となっています。 そこから少し下ると、白壁格子戸の 町屋が立ち並んでいました。
旧東海道の有松の町屋は、有松絞の店舗兼住宅で 工場も兼ねています。 表の主屋の裏に蔵や他の建物が建っています。 岡家住宅は、江戸末の建物で、丸屋丈助の店として 錦絵に描かれています。
旧東海道の47番目の宿場町の関宿は、 鈴鹿山脈の山裾にありました。 ここは、古代三関の一つの鈴鹿の関があった場所で 交通の要衝でした。 街道の追分、分岐点が2か所あり、 東の追分からは伊勢別街道が 西の追分からは大和街道が分岐していました。
古い劇場が姿を消す中、今も残っている 芝居小屋が熊本の山鹿市にあります。 ここは1910年に建てられて、歌舞伎、浪花節、 活動写真、邦楽などに使われましたが テレビの普及や映画など時代の波には勝てず、 閉館しました。 老朽化が進み、取り壊しの危機が…
皇居(旧江戸城)から凱旋堀と 桜田堀の間にある桜田門は、 二重門になっていて 内桜田門は桔梗門と呼ばれ、 外側の高麗門が桜田門と呼ばれます。 この桜田門を出た内堀通りの交差点付近が 桜田門外の変の事件現場で、その向こう側 今は警視庁が建っています…
名鉄の名古屋本線の有松駅にほど近くの場所に 旧東海道の有松がありました。 ここは東海道が整備された江戸初期には、 松林の点在する丘陵でしたが、藩の振興策で 移住が進みましたが、まだ桶狭間村の一部でした。 云い忘れましたが、織田信長の桶狭間の合戦…
奈良県の南西部に五條はありました。 ここは、和歌山に向かう紀州街道や 伊勢に向かう伊勢街道が通っていました。 吉野川に注ぐ支流の橋の前には、造り酒屋さんと餅屋さん がありました。この餅屋さんはもうやっていないようでした。
岐阜県の北部にある高山は、 江戸の初めは城下町で 古い城下町の面影を残します。 そんな高山の宮川から少し中に入った 場所に、古い町並みが残っていました。
兵庫県の北部にある城崎温泉は、有馬温泉、 湯村温泉と並んで兵庫県を代表する温泉です。 大谿川沿いに3階建ての温泉宿が立ち並んでいます。 また七つの外湯があり、外湯めぐりが楽しめます。 ここは、海内第一泉と呼ばれる外湯の一の湯で 大谿川沿いにあり…
京都の清水寺の清水坂を北に降りると、 お土産屋さんや陶器店の並ぶ石畳の通りに出ました。 様々なお店が並ぶ道沿いに、お香を扱うお店がありました。 その先は三年坂美術館がありました