2024-07-13 関川村下関~新潟 新潟の日本海側から、内陸の米沢まで 米沢街道が伸びていました。 その街道の宿場で、荒川の船便の拠点として 関川村の下関がありました。 ここは新潟からは60キロ離れています。 ここは関川村役場の前の通りで、茅葺屋根の大きな民家が並びます。 この並びには、豪商や豪農、庄屋の邸宅や旅籠が並びます。
2024-07-12 丹波篠山河原町 丹波篠山は、徳川家康が関ヶ原後に、 豊臣家や西国大名の押さえとして 天下普請で6か月で城を造りました。 その城下町で商家の集まった河原町には 妻入り屋根の商家が並びます。 ここの商家は間口は狭く、奥行きが広い、謂わばウナギの寝床に 表に大木戸の千本格子、二階の窓は虫籠窓になっています。
2024-07-11 岡城址~大分県竹田市 大分県竹田市は周りをくじゅう連山、 阿蘇山、祖母山、、傾山の千メートル級の山に囲まれた、 湧水の自然豊かな町で人口は2万の小さな町です。 ここは、今は石垣しか残っていない岡城の城下町でした。 「荒城の月」の作曲の滝廉太郎がこの城を念頭に入れていた と言われています。 「荒城の月」は土居晩翠の詩に滝廉太郎が曲を付けた物で、 土居晩翠は故郷の仙台など、戊辰戦争から明治にかけ 荒廃する東北の城をイメージして詩を書いたとされます。 明治以前は、本丸、二の丸三の丸に御殿や櫓、門が建ち並んでいた と言われますが、今は高い石垣のほかはなく、桜の名所になっています。
2024-07-10 御手洗~大崎下島 瀬戸内海に浮かぶ島、大崎下島にある御手洗には 長い歴史がありました。 神功皇后が征韓のおりに立ち寄り,御手洗の井戸で手を 洗った事が名の由来ともいいます。 菅原道真は、大宰府に左遷された折に立ち寄り 平清盛は、航海の無事を祈り、加藤清正、坂本龍馬、吉田松陰 七卿、大久保利通、シーボルト、伊能忠敬といった著名人が立ち寄っています。 古代は、大陸への交易ルートとして、瀬戸内海に港を作り 航路を整備しました。 江戸時代には、北前船の西回り航路の寄港地となり 栄えました。 その町中は、狭い路地が巡っています。
2024-07-09 海野宿~北國街道 北國街道は、追分で中山道を離れ、 小諸、海野、上田と進み、善光寺を経由して、 直江津で北陸道と合流していました。 この街道を北陸の大名の参勤交代や、 役人の交代、善光寺参り、佐渡の金の輸送などに 使われていました。 明治を迎えると、鉄道網の発達で、この街道は使われなくなり 宿場は廃れていきました。 海野宿では、養蚕に活路を見出し、大型の家屋が造られました。
2024-07-07 多層民家~田麦俣 山形県鶴岡市南東の山奥にある田麦俣は、 日本海側から内陸をつなぐ、六十里越街道沿いにあり、 江戸時代湯殿山信仰が盛んになると、宿場としての性格を持ちました。 田麦俣に残る2軒の多層民家の一つで、 民宿かやぶき屋として使われています。
2024-07-06 蔵の街小田付~喜多方 福島県の会津地方の北側に、蔵の街や喜多方ラーメンで 知られる喜多方市があります。 喜多方市の南北に流れる小田付川の東側に 小田付という地区があり、ここは、天正年間に 町割りが行われて、いちが他から移されて、酒味噌醤油 と言った醸造業の町として発展し、北会津の交易の中心となりました。 この通りには、古い蔵造りの店舗や土蔵が数多く残ります。