関川村下関~新潟

新潟の日本海側から、内陸の米沢まで

米沢街道が伸びていました。

 

その街道の宿場で、荒川の船便の拠点として

関川村の下関がありました。

 

ここは新潟からは60キロ離れています。

 

  

ここは関川村役場の前の通りで、茅葺屋根の大きな民家が並びます。

この並びには、豪商や豪農、庄屋の邸宅や旅籠が並びます。

丹波篠山河原町

 丹波篠山は、徳川家康関ヶ原後に、

豊臣家や西国大名の押さえとして

天下普請で6か月で城を造りました。

 

その城下町で商家の集まった河原町には

妻入り屋根の商家が並びます。

 

    

ここの商家は間口は狭く、奥行きが広い、謂わばウナギの寝床に

表に大木戸の千本格子、二階の窓は虫籠窓になっています。

岡城址~大分県竹田市

大分県竹田市は周りをくじゅう連山、
阿蘇山、祖母山、、傾山の千メートル級の山に囲まれた、
湧水の自然豊かな町で人口は2万の小さな町です。
 
ここは、今は石垣しか残っていない岡城の城下町でした。
 
「荒城の月」の作曲の滝廉太郎がこの城を念頭に入れていた
と言われています。
「荒城の月」は土居晩翠の詩に滝廉太郎が曲を付けた物で、
土居晩翠は故郷の仙台など、戊辰戦争から明治にかけ
荒廃する東北の城をイメージして詩を書いたとされます。
 
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明治以前は、本丸、二の丸三の丸に御殿や櫓、門が建ち並んでいた
と言われますが、今は高い石垣のほかはなく、桜の名所になっています。

御手洗~大崎下島

 瀬戸内海に浮かぶ島、大崎下島にある御手洗には

長い歴史がありました。

 

神功皇后が征韓のおりに立ち寄り,御手洗の井戸で手を

洗った事が名の由来ともいいます。

菅原道真は、大宰府に左遷された折に立ち寄り

平清盛は、航海の無事を祈り、加藤清正坂本龍馬吉田松陰

七卿、大久保利通シーボルト伊能忠敬といった著名人が立ち寄っています。

 

   

古代は、大陸への交易ルートとして、瀬戸内海に港を作り

航路を整備しました。

 

江戸時代には、北前船の西回り航路の寄港地となり

栄えました。

 

その町中は、狭い路地が巡っています。

 

海野宿~北國街道

 北國街道は、追分で中山道を離れ、

小諸、海野、上田と進み、善光寺を経由して、

直江津北陸道と合流していました。

 

この街道を北陸の大名の参勤交代や、

役人の交代、善光寺参り、佐渡の金の輸送などに

使われていました。

 

    

明治を迎えると、鉄道網の発達で、この街道は使われなくなり

宿場は廃れていきました。

海野宿では、養蚕に活路を見出し、大型の家屋が造られました。

多層民家~田麦俣

 山形県鶴岡市南東の山奥にある田麦俣は、

日本海側から内陸をつなぐ、六十里越街道沿いにあり、

江戸時代湯殿山信仰が盛んになると、宿場としての性格を持ちました。

 

     

 

田麦俣に残る2軒の多層民家の一つで、

民宿かやぶき屋として使われています。

蔵の街小田付~喜多方

 福島県会津地方の北側に、蔵の街や喜多方ラーメン

知られる喜多方市があります。

 

喜多方市の南北に流れる小田付川の東側に

小田付という地区があり、ここは、天正年間に

町割りが行われて、いちが他から移されて、酒味噌醤油

と言った醸造業の町として発展し、北会津の交易の中心となりました。

 

    

 

この通りには、古い蔵造りの店舗や土蔵が数多く残ります。